今回の大病を経験して、しがらみ(柵)の大事さを再認識できた。私の肌で感じた、世間の一般的感覚は、面倒だし、足を引っ張るような感じで、良いイメージがない、しかし、よくよく考えると、立つ塞がる、しがらみは誰が行うのか、縁が深く、私の事を心配するかの行動と思える。当然、検知の度合い・経験値も高い人がこの傾向が高い・・・と言う事は、私よりレベル・経験値の高い人の助言・・・これをしがらみと捉えてしまう傾向が有るし、この進む先がハラスメント等にも繋がっていると思う。
先のブログ書いている、人生は「片道切符」線路の上を歩き続ける事だと思って居る。線路上を多くの人が歩いているルートも有る。又、少しの人しか歩いていないルートも有る。歩いている本人には、目的地の先の風景は見えない・・・・しかし、このルートと若いときに決める。特に多くの人が歩くルートでは先も見えにくいし、予想も正確に解りにくい、良い噂だけが流布する方向に成るので安心して進むが、終点が近付くと見え解り出すこの時点で戻る事が出来るのか・・・・人々から押され続ける順送り、その密度が高ければ逃げも・避ける事も出来ない・・・この順送りの密度が低いと何かの対応が出来るし、新たなルートへ移動も可能になる。それに先に書いたしがらみ(柵)を多く持っていると、進む私の手を取り列から脱してくれる可能性が有る。当然、凄い勇気とパワーが必用に成る。この己の命を賭けた行動が出来る人が何人居るのか???私の場合で、私の独断の感覚だと血縁関係の人達になる。義理が付くと少し、対応が違う、どの程度の違いかは、我家は競売になった。其れを落としたのは、義理の弟・・・凄い事だと思うが、彼の能力なら不可能でない・・不可能と思える事を惜しみなく出来るのが、縁が深い、血族だと思うし、中には他人でもその様な事が出来る人も希に居る。要はしがらみが居ない人と居る人、何方が幸せかはこの価値観だと解ると思う。これを嫌と捉え、逃げ避ける生き方でこの生き方だ大多数だという事で正しいと思い込むこれが恐ろしい最後を迎える。最後が見えだし、流れ動きを止めたいと思っても、順送りで押され続ける。どう足掻いても流れに抗えない・・・その時に、しがらみを多く持っていれば・・・・柵が現れる。フェンスになる。私のブログを閲覧している人は解ると思うが、私に何か変化が有るときには、大事な人がこの世を去られている。縁ある人達の思いと命が私を生かしていると思う。小さい頃は解らなかったが、成人した後は何かの切っ掛けの際には、必ず大事と思う人が逝っていった。その都度に私は成長できたと感謝している。この気持ちがあるので、葬儀には出来るだけ参列したいと思ってしまう。人の死に様が、その人の其れまでの生き様を知る事が出来るし、今後の己の生き様に繋げたいと考えている。
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