富・・・・この言葉の感覚も各自で違うと思うが・・・・
十分に、唯物的・・・物が有るという意味に捉える人が多いと思うし、私の家族の場合、この様に思っている人が多い・・・・
富が有れば、幸せと考える・・・家族ということにも繋がる・・・
この家族の要求に答える為に、私は、頑張って来たつもりである。
結果、私が子供の頃、予想もできない物質的物は、現実に手に入れた・・・しかし、幸せかと自分自身に問うと、子供の頃が幸せだったと、私の場合、感じるし思う。
物一つ一つ・・比べると凄い、発展・成長をしているし、この事は良いという事になるが、私の心では、幸せとは感じられない理由が解らない・・・
勿論、唯物的に昔と比べると、今が発展しているし、恵まれているとなるが・・・心が素直に幸せ感を感じない・・・
貧しいが、助け合い・・お互いさまで生きていた時代の方が、心の安らぎが有った感じが私の場合します。
現代のこの拡大した、物に埋もれ、これを手放したくないと・・・必死に保身の気持ちで、守る、結果、人は敵と捉える方向に向かう。
騙されても、無くす者が無ければ、騙す人も減るし、利用しようと言う人も減る。
しかし、無くす物を多々持っている場合・・・之を無くさない、方向の考えが正しいとなるし、増やす方向が、正の中の正と言う考えに成って行く・・・
しかし、何度も書くが、唯物的物は、限界がある。無限に有れば問題も無いが、限りが有る物の分配の仕方が、変わっていく流れに成る。
先に書いた、富を増やす、これが正の中の正という考えなら・・・・・世の中に100有る物をどう分配したら、富を増やし、幸せという価値観、考えなら・・・当然、全部得る100を得る為に、努力をするし、現状の10を無くさず、増やす価値観に成る。
この様な、価値観を、なぜか植え付けられている。又、之が幸せに繋がる道だと信じている。
しかし、現実には、今ある10を無くさない為に、人を信頼できない、又は人は全てこの10を奪おうとしている考え方に成って行く・・・
勿論、本人は、現状維持の10では満足できず・・それ以上を目指す。
要は、人が持っている物を奪う、この事が幸せの、基本と言う事になる。
私は、三流だから、無くす物も無いし、私が持っている物を欲しがる人も居ないと思っている。
肩に力を入れる事無く、気が楽だし・・・人が持っている物を欲しいと思っても、力が無いから、焦る事も無い・・・・
結局は、争う事も無いという事になる。
争う・・・この大きな事が、戦争という事になる。戦争状態やこのレベルの心が、平和で幸せか???と考えた場合・・・不幸・悲惨としか私は思えない。
競い争う・・・物を得る為の行動は、結果的に人を不幸にしていると私は考えている。
勿論、違う意味での競う争う、これも有る。
しかし、違う意味、それを知らない、又は見えない人も現実には多い・・・・
要は、見る目を鍛える事になるし、聞く耳も鍛える事になる。
簡単に書くと、見えない部分が見える目にする。聞こえない声が聞こえる耳にする事になる。