数日前の握力検査で、右が19kg左が9kgと成った、入院時より数キロUPしている。しかし、弱すぎると思う。握力を鍛える為に、危惧を借りて行いだした。少しでも回復したい、その願望が強い、昨日も、機械修理のために、その装置が家に有るので其れで修理テスト、しかし、以前なら、早くて三十分で終る作業が、四時間を過ぎ、今朝の朝方まで調整で行っていた。力が無いので、ネジ見思うように締めたり緩めたりが出来ないし、持ち上がる等も出来ない、その部分を嫁に手伝って貰うが、思うように成らない、入院中も付き合ってくれた大事なお客さん、メーカーに依頼しているが、買換えてくれとの話と言うことで、良い感じに思われていない、正直、部品が無いと言える時期になってきたが、部品がある限り修理は行いたいと私は思う。今、嫁が装置を我家の機械に接続してテスト、無事に稼働したとのこと、この装置を持ち込み修理したい、現場で、ボロボロな状態の体で修理するのも、お客さんには迷惑だと思う。その為に見えない処で行い、後は、誰しも出来る状態で伺う、この方向で考えているし、今回は別の機械の修理もある。此は、ユニット交換になる可能性が高い、ユニットと言う事で、部品単価が高すぎる!!!二つも交換すれば新品が来るという値段・・・今の世の中、修理と言うより、買換え、身長の方に事が進んでいる。人間も同じ要に捕らわれ出すと思う。置いたり、病を患ったりしたら、治すと言うより、廃棄・新調する方向に向うと思うが、少子化が新調という方向も阻害している。現実に、今デイケアサービスを利用している。今後断崖の世代と言われる人達が、大勢、後期高齢者となる。又、自己中も多くなる。施設内に居ると、俺が親分という雰囲気を醸し出す人が多い、その分、色々言われているが、私の耳にはクレームにしか聞えないし、赤子が我侭を言っているように見える。この様な価値観が良くて偉いのか???私は違うと思う。我侭の人の機嫌を損なえないように職員が対応している姿と見ると、今後、益々大変に成ると考えている。若いときに社会でどれ程、揉まれ、磨かれたが、年老いて大事になる。思うように成らず、人から指摘・叱咤され続けた人の方が、年老いて人としての器が広い感じがする。己は偉い・一流と思い込んでいる人が、デイケアーサービスのお世話に成るとは考えもしていない、今のサービスの提供では満足されないと思う。今後、昼過ぎに嫁が迎えに来る、その足で、お客さんに伺いたいと考えている。
今帰ってきた、何時もは土曜日も仕事をして居られるが、今日は、作業場の人だけで、事務所は無人、持ってきた機器を、壊れた機器と交換、この時点でヒア汗が一杯出て限界、車に戻ると、嫁に、テストをお願いして、玄関へ・・・玄関の段差5cm程で、バランスを壊して、転倒・・・足に力が入らない状態に成っていた。嫁が起そうと努力するが、嫁の力では無理、30分ほど頑張ったが、結果的に作業員二人に依頼して、私を起して貰った。感謝である。
何が何でも、出来る範囲で対処したいし、其れが人として当然の振舞だと考えている。嫁は、死んだらどうすると言うが死んでも私は構わない・・・・数年、仕事も真面に出来ないで生きる、男として、意味が有るのか???少しでも人様の役に立っているのか???多くの福を社会に与えれば、社会は豊かになる。逆に社会から多くの福と頂こうと思うと、社会は貧しくなる。