2025年2月19日水曜日

激痛・・動けない!!!

 今日は昼食後の入浴・・・・脱衣所で腰のコルセットを外したと同時に痛みが、入浴中にも痛みが強くなる。洋風を着るときは、体を多く動かすが耐えがたい痛み、我慢して自室のベットに横になっていても痛みの度合いが強くんって行く、看護師さんに痛み止めの薬を頂いたが、痛みは強くなる一方・・・リハビリの先生が来られたので、状況を説明して、今日のリハビリは中止、帰りに、コルセットの装着をして貰い、少し楽になったので、ブログノUPを行っている。

成長の源!!!

 先のブログで主は力と題している。主とは宿主とも言える、宿はある範囲に成るし、その主に立つという事、小さな単位で生物なら宿命としてある。責務の親という立場もこのレベルという事・・・・唯物的には負・損と思える立場だし、この様に思う人が増えているので、リーダー不足・責任職のなり手がない・少子化・高齢化・等々が問題となっている。背負ったら損・負けという価値観の押しつけが西欧列強の一神教世界の価値観を押しつけ、国民力と私は言うが、10人なら、10人力が世界の共通認識。しかし日本では10人が100人力になる可能性が有る価値観が根幹に有るのを抹消しようとする流れが終戦後から続いている。当然、終戦直後の方がその傾向を強く発揮しているので、戦後、育った人達は、利己主事・唯物論しか信じない・結果、勝ち負け論・優劣論のこの価値観で判断している。その様な人が育てた子供達が、今では祖父母になる時代、三代価値観を固定できれば、今後は変化しない・・今が最後のチャンスだと思って居るし、危惧して書き続けている理由にもなる。私は何度も書くが劣っているし、無知だし命のレベルは鬼畜だし、嫌われても当然、どんな仕打ちを受けても仕方がないと思っているが、少なくとも人間という姿で生まれたなら、最低限の責務だけは果たそうと頑張ってきた。父の会社の倒産後に長男が生まれ、二十歳の嫁は世間から後ろ指を指され、馬鹿にされ笑われても負け無かった、医者から子は持てないと言われた体、しかし、母になると、何故か、強い強い、何事にも負け無い、その姿を見ていると、私も誰かを背負わなければ負けと思うように成るし、自宅の競売も、妹の夫・義理の弟が競売を落とす、この男気・凄いと思うし、俺には出来ない、絶対に人様の役に立てる人間にレベルは下等かも知れないが出来ると今まで生きてきた。私が感謝・感謝と書き続ける理由は、若い時にノイローゼに成り、何の為に生きるのか???解らなくなった。学びたいと言う思いが大学入学を父の商売の景気の影響で絶たれ・・・部屋にこもり続けて、色んな本を読み続けていた。頭では解るが、知識程度で行動には成らない・・・しかし、目の前の人の為と成ると、知識をフル活用して、動けるようになる。己だけだったら出来ない・不可能なことが、他のためには出来てしまう。それも思ったよりスムーズに私のブログを閲覧している人は、不思議で奇跡的とも思えると思うし、私の周りの人もその様に言う・・・しかし、本人は普通だし、スムーズに何故か進むと思って居る。今、自主練を行っているが、これ位の痛み・疲れ等々の負の部分は想定しているし、その想定の範囲内になっているので、続けられる。結果が良ければ、当然感謝に成る。人は人と人との関係性で生きて居る、その人とは千差万別であるし、選ぶ事も出来ない、縁・一期一会になる。その為にも己の分をよく理解し表現しなければ、粉飾・嘘の関係性に成る。当然、相手の分も確り解る必用が有るし、解った上での何度も書くがANDの関係背にしていくことだと思って居るし、小さい単位だと、夫婦間・親果敢になると思う。当然、主を何方かが行い、片方はカバーと行けば理想だが、方向性が違うと脚を引っ張り合うのが私が今まで見てきた夫婦間・親子間に多い気がする。主の思いが伝わっていない・・・心を理解できていない、主の責任とも言えるが、寄生側の問題も有りえる。本来の主との関係性は、仏法の曼荼羅等で表す、須弥山の虚空会の儀式と言うより系図関係性だと私は思って居る。要は、同じ目標に向う同士、当然、千差万別の人が募る世界、此を須弥山というし、天国とも表している宗派がある。この娑婆世界も同じ、色んな人・立場・価値観の人・境涯の人が居るが、一つの方向、此が善なら希望が有るが、足を引っ張り合う関係性なら、暗い世の中の想像にしか成らないとなる。人に尽くす、レベルでも色々、しかし、道に落ちているゴミひとつ位は拾う、この心・命の連鎖が、活況・境涯さえも変えていくことになる。勿論、実力があれば、その分に応じて・・・

怖いのは、人の思い、本質が未来を決めるという事、各々が求める理想郷が違えば、力有る方向の地層今日に向って行く、力有る人が下僕の様に民の為に尽くす事を思って居るのか????この逆を望んでいるリーダーが多いのが現在、日本国、頑張れと言いたい。!!!

主は力・個は没落

 入院も含め・・高齢者との縁で不思議と思うし、何故と思うことが多いし、その様な方向に成られる人が多いことに驚く・・・題名に主は力と書いているが、若く時、我武者羅に生きていた時がある。キツイ・痛い・苦しい等々の負や損を顧みず人の親として子育てし社会人としては責務を背負い、必死に前へ前へを行っていたいた程、老いや病うと何故か、背負うものが無くなる人が多い、生きた責務は果たしたかも知れないが、己以外の為と生きて居た頃は不可能と思う事も叶えて来ているのに、何故 身軽なはずの立場に成って、気が重く、動けなく成るのか?????

今入院中の私・・同じ病人・患者さんが多いが、此方が己の人生の総仕上げの時、背負う責務も無くなり、身軽なはずなので、元気コスプレをしても良いと思うがその様な人は居ない・・・・重荷を背負って前へ前への思いで、逆境で有っても進もうとするパワー・・・還暦前後の人の体験話しを聴くと、必死に子育てした、その苦労話を幸せの様相で話される人の多さ、人を背負う大事さと幸せ感を感じ取ることに私は成る。

老いている人・病人の人・・・身軽だから悩みが深まる。機能的に低下・五体不満足になる。この状態で、一般的に言われる唯物的、幸せは得れない・・・若いときも唯物的、幸せを追ったが子育て、社会貢献等で得る事はなかったが唯心部分の幸福感は得ることが出来ている。要は、此を行えば良いこと、ブレない、俺はこの生き方しか出来ないと、前へ前へと前進し続ける。その為に、何かを背負う、この責務が、生きる目的、使命となっていくと私は考えている。

サー・・・此から、今日二度目の樹種連に!!!!