2022年11月10日木曜日

何時ものことだが・・・大変

 今朝は五男を駅まで送る・・・・5時半の電車とのこと・・・

三十分前に起こしてと言うので4時半に起床して、五時前から携帯電話で起こし続けたが・・・何時ものように、目責め無い・・・

中二階が五男の部屋なので、階段を使って、部屋に向かうことに成る。しかし、私は階段が上れない・・・電話でと思うが、電車に遅れそうに成ったので、己に鞭打ち、階段を四つん這いで上り、五男の部屋へ・・・・起きてくれた。それから準備・・・・私は、車の中でイライラしながら待つ・・・・

何時ものように、交通違反の連続で、どうにか間に合った。

今、自宅に帰ってきたので・・・ブログのUPを行っている。

嫁は、夜勤で居ない・・・後は、四男を6時半に起こして、見送ったら・・・・私は、久留米医大への通院に成る。

気温も寒くないようなので・・・今回もバイクで向かおうと考えている。

理由は、稼ぎが減って、家族に迷惑をかけている状態で、車を使う、それも己自身だけの為に・・・私の価値観だと許せないと成る。

人、特に男は、人の為に生きるものだと私は思って居る。此も何度も書いているが、我が子・他人の子・・・男は区別が解らない、特に私の場合、要は我が子という実感が無い・・・嫁が貴方の子よと言うからその様に思っているだけ・・・男は、後継者・子孫の為に生きる、先のブログだと、死ぬ為に居る存在と私は考えている。女は人を産める、人間の創り出すことが出来る。男は、手伝う程度に成る。未来を託す人達のために、生きる・・・これが男と言うことだと思っている。

四男も、我が子の養育費を稼がなければと、福岡の遠くの現場で塗装を頑張っている。男として責任、最低の部分で、子供を食わせるお金は死んでも払えと言っている。6万ほど支払うために、必死に働いているが、精神的・肉体的に離婚前より、楽なようだ・・・・その当時は、稼ぎが少ないと嫁里の母親から言われ、本業と別に2つのアルバイトをしていた。結果、痩せ細り、ノイローゼのように成っていた。

本人曰く、嫁里からマインドコントロールされていたと今は言っている。

その時の世帯に必要だったお金、普通は亭主が払う・・・しかし、お金を持たないし、ローンも使えないために、里親に娘が借金を頼んだので・・・全て出したお金は返せとまで言われ・・・アルバイト等で頑張っていたが・・・当然、私としては出来る分のお金は渡していた、しかし、四男も、言いにくくなったのか・・・自分でなんとかしないとと頑張っていたが・・・・離婚と同時に、金額を請求されたので、面倒と思い、私が支払った・・・世帯道具に使ったはずだが・・・何故か、我家に戻ってこなかった。高級な冷蔵庫等々・・・四男が、長男と同じ様に、孫にくれたと思えばと言っている。

この様な感覚なので・・・子として義務と責任は???と成れば、当然、両親が居るはず。又は、祖父母が居る場合も有るし、人数は4人となる。

要は、最低で二世代前までの人を背負う、責任と義務が有ると考えているし、背負う使命が有ると思っている。要は6人に成る。

6人を背負えるか???又、当然五体不満足に成っているから背負うという状態に成る。この現実に、将来に対して当然、子孫を残したいという部分も出てくる。要は己の老後・介護は???と言う、問題は、子孫に頼るしか無いとなる。

結果、6人プラウ我が子を育てることになる。当然、その為には妻子が必要だし、妻を背負う覚悟も必要となる。

しかし、現実に、一人で背負えるか???特に、親や祖父母という、先代に対して・・・それに、叔父・叔母という存在も有る。

両親の兄弟が多いという事は、祖父母の面倒を孫が看る必要性も減るが、現実にはこの人数も減っているし、責任・義務の放棄も進んでいる時代・・・結局は、一親等がとなる・・しかし、一親等さえ放棄したいと思っている人が、何故か一流で優秀な国民が多いはずに日本国で進んでいる。

この様な、たとえで悪いと思うが、負の部分を誰が背負うか???当然、多い方が、各自の背負う重さが軽くなる。

それなら、負を背負うという大事さを何故、教育しないのか???と私は考えている。勿論、我が息子達には話すが、時代遅れ・等々、今の社会常識と違うと言われる。

要は、常識は負から逃げ・避ける生き方を推奨していると言うこと・・しかし、何度も書くように、人は劣り出す時が有る。病を患う・老いる・死という現実が有るし、道理でも有る。

この現実が無いという、価値観で、事を考えているとしか思えない方向に進んでいる。結果、人は、人で無くなると言うこと・・・生物としての「生老病死」も認めてくらない、社会と言うこと・・・この様な状態は有りえない、考えられない、結果、国・行政が面倒を看ろという流れになる。

これこそ差別だと私は考えている。障害が有り、五体不満足でも、社旗の一員として、何かの役に立っている、これが有るから生きられると私は考えている。

要は、色んな人が居る・・・考え方、価値観も色々・・・しかし、共に社会の中で生き、各、光るポイントが有り、社会に役立っている。

これが平等と思うが、私が言う違いが、今では差別と言われる・・・結果、色んな人が居る社会は有りえない・・・価値観・考え方も、正しいという一極な方向の人々になることを平等と言っている。

これが意味することは、カタログスペックで少しでもその環境に不利となるなら、除外・・・抹殺する方向になる。此を私は差別だと考えている。

当然の事・道理・・・老いる・病になる。等々さえ、道理を許されない世界、生物の人間なら生きにくいと思う。

人は何の為に生きるのか????私の永遠なテーマになっている。

一つの答えは・・死ぬ為に生きている。立つ鳥跡を濁さずとも有る。要は汚れ、物を残さないと言うこと・・・残せる物は思い出となるし、強く言えば、考え方、哲学になる。

生き方・・言い換えれば死に方を語られる人にならなければと思っている。