二人のリハビリの先生が施術に来られた。この部屋から出れないので、一人目は私の様態と今後の対応の説明・・・・基本、ベットに座ったりしての自主練とのこと、安全を優先して座って行う事とのこと・・・・二人目の先生は、ストレッチで終了・誰しも感染者が出た部屋に長居はしたいと思わないと思う。日頃の人との間隔の取り方、私は、近場で向かい合うというスタンスは取らない・・・基本は、この特徴で過してる、距離を開けて話すので、声が大きく成る方向性に成る。そばに近付いて話す、コソコソ話しているようで好きで無い、だから誰に聞かれても対応できるように考えて声を発している。
2025年2月26日水曜日
一先ず難題を超える・・・
今、看護師からPCRの検査結果の報告が「陰性」との事、一先ず安心、三日後に再度検査が有るが、其れで陰性だと、監禁が解かれる。私以外の二人の患者さんの結結果は解らないが、陽性だったら看護師が数人来て大騒動になるので、解ると思うがそれが無いので、勝手に陰性だったと思っている。現代は個人情報法との兼ね合いで、この様な事も言いにくくなっている、要は、本人が各層と思えば隠せる時代、周りは隠していることを知っていても言えない、言えば何故。プライバシーの故人の事をと言い出す、結果、心配も何の手立ても出来ない、しかし、行き詰まると心配して居t使徒達に責任と捉える、区長・民生員が一番困っている処になる。縁の近い人に程、己の地を見せる、恥ずかしいと思っても其れを見せておく、此が大事だと思う。今回の入院で、まな板に乗った鯉に成る、大事さが解った、ジタバタしても意味が無い・・・一時期情けないと己を思っていた。此も思い上がりだと最近思うように成った。他人様の手を必要となり、迷惑を掛けているこの事に対して情けない・仕方が無いこと、出来ない事は人様の介助も必用に成る。私が近場で介護している人に出来る事は、一日でも早く、機能を改善することが介助してある人の役に立つ行動だと思う。此も、考え方、世界のグローバル的な価値観だと、介護士は俺が使って居るから仕事が有る感謝セロという人も多い成っている。仕事を作り続ける。意味も無いと思うが、GDPに加算される、此を無償奉仕のボランティアは数値に加算されないが、この方が、私は過しやすい、社会だと考えている。
緊急事態!!!
新しく入室された向かいの患者さん、三日ほど熱が続いていたので、今朝PCR検査・・・陽性と認定され、同室者は濃厚接触者という事で、一週間程、部屋に隔離とのこと・・・・トイレだけは看護師が同伴して来るとの事だが、散歩・自主練は中止とのこと、当然、お見舞いも、中止、嫁が色々、持ってくる物を忘れていたので、寒い中、薄着で過しているが、上着も、杖も、その他のものは月曜日に持って来ると言っていたが、私が指摘していった言葉なので当てにしていなかったが、この病院では、面会者の対応がどうなるのか解らない・今後、私も三日に渡りPCR検査、陰性を願っているが・陽性だと、命の危険が有る病と医師から言われている。怖いけど仕方が無い、向かいの患者さんも悪気が有ってでんない入院間もない為、多くの見舞客が来ている。入院の際は検査が有るので、陰性だったから四人部屋に来られている。あそれから一週間程で、発病・・・・病を避けたいと言う思いが有っても避けられない時が有る、何時病に成っても良いと言う覚悟が必用だし、私の場合は死に繋がっている感染症に成る。これが怖ければ、ベットから出ず、全て看護師任せが良いが、体は衰え・硬直していくことになる。私は安全な平場を歩くより、危険な崖っぷちを歩く方が、醍醐味を感じ、生きて居る実感を感じられる!!!嫌われて上等という生き方、しかし、善方向と思われる言動を取る・・・若いときから罵られ馬鹿にされ続けたが、終盤はどうなるのか???今回、また縁あって向かいの患者さんがコロナに感染、これをどう受け止めて乗り切るのか???此も楽しみになる。
デイルーム
今日も6時から自主練・・・・何時もの様に一人で行っていた。今朝は看護師さんが、私の部屋の横に入所されて居る、老婆を連れてこられた、直ぐに解る、何時も騒いで居られる痴呆症の患者さん、年齢は104歳と看護師さんから聞いた。しかし、遠くで聴くのと、近くで聞くのとでは全然感じ方が違う、壊れている思考・同じ事も意味が解らない単語を繰り返される、可哀想で、聴くに堪えなくなる。家族なら尚更堪えがたい・・・結果、入院と思う。一時間ほど、同じ部屋に居て、自主練を続けながら発してある。言葉の意味・本質を私なりに考えていた、人に囲まれた人生・其れが普通で・幸せと思って居られるように感じる。今は一人・孤独・その為に看護婦さんと連続して発せられる、この方も構って欲しいという思いが強いようだ、今まで人に好かれたいという生き方続け、当然、近付く人々も多かったと思う。しかし、其れが今では重荷になっている。私は嫌われ者、人様から居ない方がよい、死んだ方が世のためと思われる人間、この様な考えに何故成ったのか???よくよく考えると、若いときに多くの諸先輩・高齢者等の話、体験を聴いて、この様な考えに生ったようだ、何度か書いているが、全盛期の頃はいい人を演じ・周りから好かれているというのが自慢の人が私の周りには多かった。10年後以上経つと、人が近付いてこない、己も落魄れて人の優しさに飢えているし、過去に恩も多くの人に与えたという思いが、悔やみ・恨みに向う人達を多く見てきた。
日本国も先進国、この宿命は、少子化に高齢化・・・それに医療が充実しているので、長寿と言うのも、健康なら良いが、不健康なら問題に成るが、先進国の場合この状態でも生き続ける。特に先進国の方向性で、色んな立場も誰が決めたか解らない演義を、演じる事が幸せと思っている。皆が演じていることになる。当然、そのスタイルを決めた人のためという事に成る。この一部の人の為に費やした人生、その間は幸せと思うようにしていた。優良な消費者として人より少しは贅沢できた。しかし、五体不満足になったら。当然利用価値がない立場、誰も近付かない・・・・私は、生きるという事は、死に様だと考えている。絶好調・全盛期の時は続かない、何も無くなってからが、その人の生きた経験で何を学び、智慧にしたかに成る。この智慧を得られなければ、「生老病死」は本当に怖いし、考えたくも無いと言う状態に成っている。これを「四苦」とも言われるが私は四つの当選の事と捉死えている。この様な考え方で、人を見ていると色々見える、今、権威を持ち威張り天下を取ったと思っている人の終焉、地獄だと思う、この事は本人も高齢に向かえば気付く、しかし 、認めたくないと暴走し出す、成功者に多い特性・・・その暴走列車に乗っている人々・其れを見ている人々、どう思われるのか???乗客は向っていると思う方向が正しいと思い込んでいるから、問題・脱線したら・・・己が好みで乗車したのに責任転換!!!人も枯れだし、最後は折れて死ぬ・・・・この変貌を確り見とくことになる。