私の趣味の世界・・・・基本、フリーダムと思って、行っている。
束縛されない自由と言う意味も有るし、自由主義国家の我国なら当然な事と私は考えている。
勿論、自由主義が正しいとは考えていない・・・全体主義も有るし・・・色んな主義が有って良いと思う・・・
自由と言う事は、色んな価値観を認める、之が基本に有ると私は考えている。
勝てば正しいと言う考えも有るが、逆に勝って正しいかと???疑問を持つ考えも有るし、負けるが勝ちと言う価値観も有る。
自由と言う事は、色んな価値観の有る人間の尊重が無ければ、結局は、人間の本性に有る。自分さえ良ければ、之が必ず、表に出て来る。
私は、一番不幸なのは、他人と比べる命が有ると人間の本質だと考えている。勿論、比べても良いが、何を比べているのか????之が人間の本能の場合、基本一緒だと私は考えている。
人間と言うより、動物の本能に近い部分の為に、本能と理性の戦いが出来るのが、人間だと私は考えている。
表現が厳しいが・・・理由は、寝る間も惜しまず、受験勉強をしている人に、たまには休めと言う・・・・同じ受験生だが、全く勉強もしないで、遊んでいる子に、同じ、言葉、たまには休めと言う・・・
同じ、表現だし、意味も同じと思うが、本質の思いが違う・・・・・・結果が大きく変わる場合が有る。
人も動物である、本能と言う部分は必ず有る・・・特に切羽詰まった時には、本能が強く影響しだす。
命の部分に本能が有り、頭の部分に理性が有る・・・・命に係る事に成ると当然、本能が勝る。
その為に、平時の時は、理性を命に刻む、日ごろの行動等々が必要になると私は考えている。
日本国は恵まれていると世界から思われている。この事は、普通の時は命に係る状況で無い、へ時の時に成る、この状態の時に、刻む行動が必要と私は考えている。
しかし、世界から見られる環境で無く、毎日が、命に係る、俺が・俺がで生きなければ、成らない社会だとすると、第三者の意見と、当事者が大きく違っている事に成る。
しかし、何かを恐れている為に、起きている現象かもしれない・・・日本国は、人権の保障が有る。最低の衣食住は、守られている。
勿論、最低と言う基準も、最貧国と比べると、雲の上の生活かもしれない。
結局は、何を恐れているか????自分の見栄だと思う・・・人からの目線に成る。
この部分で、少しより良く見られたい・・・之が、俺俺に向かわせていると思う。
淡々と生きる・・・自分のするべき事を進める、当然、人様の評価等、気にしない、この生き方が良いと成らないのかが私には解らない。
よくRC仲間から、普通の人と、違う次元に居ると言われる・・・この事は、普通とは色んな考え等々が無い、一極の世界だと言う事を意味している。
その価値観で、何が楽しいと思えるか、他人との比較に成るし、結局は勝つ、優越感に成る・・・この事は、敗者を創るし、劣等感を感じる人を多く作る事に成る。
結局は、一部の勝者と、大多数の敗者を創る事に成る。
結果、敗者は、努力もするが、努力では、無理と成ると、神頼り等々の策に向かう・・・・
本来その様な意味での神ではない・・・・
神も間違いを起こすし、失敗もするという、人間的な存在・・・・神の逸話で、神が出来た事と捉えて、何もしないか???、力が無い、人間だが、少しはと思うかの違いで、大きく変わる。
人間としての、尊厳・権利を保障している国・・・・仮に、大金持ちで、全てを国に寄付して、生活が出来ないと成れば、生活保護で生活が出来る。
人の一生を考えると、どちらが幸せか私は解らない。
勿論、私がその立場なら、三流の為に、死んでも寄付はしないし、貪欲に富を求めると思うが・・・
その生き方で、本当に幸福かどうかは、又別の話に成る。
リッチで、湯福と思われる人が、日本国には多い様に見える、勿論、私の様な三流は少なく、一流が多い様に耳に聞こえる。
将来の日本国も安泰だし、三流でも沢山の子供を創っても、その様な人が手を差し述べてくれる世界だと考えているが、現実は違うのか???少子化に向かっている。
理屈的には、裕福なら、人に施しが出来る可能性が有るのに何故と成る。
この部分も人の心・命が支配している事に成る。
本当の自由は????私は、本能も含め、制御できる、命の世界が自由だと考えている。
又、環境等の境遇はどうであれ、心がどう感じるかの境涯が自由に制御できる事だと考えている。
この自由が有れば、先細り、争いに向かう方向を極力避ける方向に向ける事も可能だと私は考えている。
簡単でないし、特に三流の私には不可能に近いと成る。
三流の私が環境を変えようと言う方向なら、不可能・・・しかし、その環境を捉える境涯の方は変える事が難しいが、不可能でないと私は考えている。
2019年2月26日火曜日
耳っ障りが良い悪いも・・・之も価値観で変わる・・・
人は不思議で有る・・・耳障りの良い言葉と、悪い言葉が各自の価値観で変わる。
理想論等々も、到底無理と思えるものは簡単に言えるし、当然同じ価値観を持っている人しか居なければ、元より理想だから無理だと、聞いている。
この無理と感じる事は、逆に人は簡単に口にできると言う事・・・・誰も信じて居ないし、その場しのぎと理解している事に成る。
仮に、走りが遅い人が、絶対に今度は一等賞と言っても、誰も期待しないし、誰も信じて居ないので、この事で、嘘を言ったと言われる事は無い、この表現は、出来ない夢だと捉えている。
しかし、仮に、最後尾から二番目を、今回の目標と言った場合・・・・誰も信じないか????
若し、信じる人が居るなら、その人に対して、裏切った事に成るし、嘘を言った事に成る。
出来そうもない、事を言う事は、理想と言うより、見栄、どうせ出来ない、等々が頭に過る為に、耳に入り方は良い事に成るし、逆に言う事も楽に成る。
仮に、私がブログによく書く、利己主義・・・・この反対語は利他主義と一般的には成る。出来そうもないので、耳に痛みを感じない・・・又、誰しも期待しないので、口に出す事も簡単に成る。
しかし、利己・・・この言葉は、利と己で構成されている。
この己を他とする事と同じで、己はそのままに、利を、負と置き換えると成る・・・・
負己主義と言う事に成る。
社会には利は少ない、誰しもが求めているので、当然、利は残っていない。しかし、負は、誰しもが負から逃げようとする人が多いので、社会には多々あるし、現実は負しか残っていないと言う世界が現代に成る。
負を得る事が難しくなく、簡単だと言う事・・・・何もしなければ、結果的に負を背負う方向に成るのが現代と言う事に成る。
先に書いた様に、反対語で、利己主義の反対が、仮に、負己主義とすると、当然、簡単に直ぐに背負う事が出来る現実が有る。この言葉を聞けば、直ぐにイメージできる、周りで困っている人の顔が浮かぶ・・・・
その問題を共に解決・背負う事が出来るか????出来ないし、若し言えば、当然、誰しもが期待するし、出来ないと直ぐに、出来ない事を言ってと、非難される。
若干だが意味が違うが、利他主義と負己主義・・・同意語と私は考えている。
この部分も一神教の価値観が、入って来ているので、利益が出た場合は、他人に少し施しをと言う意味に捉える人が居る。
先ずは、自分が十分な利に浸り、溢れた部分は他人と言う考えに成る。この考えなら、利他主義等々簡単に言える。何故出来ないのか???と問われても、現状では、まだ自分が満たされていない為と、言える。
何時、満たされたと感じるか、永遠に無いだろうと成る。
利に対する人間の慾は、無限に深い・・・・・
負己主義なら・・・間の前に落ちている負を背負うだけで簡単だが、当然、自分の利等得る事が出来ない。この損と言う価値観が、結果的に多々落ちている負を気付かない方向に意識を向けている。
利は、追わなければ逃げる・・・しかし、負は、負の方から追って来るし、足を掴もうとする。
この様な特性が有るので、負を背負うと成ると簡単に背負えると言う事、それに耐えれるかが問題に成る。
有りえない・誰しもと言う、事を言う人も多い、しかし、日本国は自由主義陣営に成っている・・・各自の価値観に即して生きれる世界と言う事
他からの・強制・束縛・受けない、自己の思い、哲学・価値観で生きれる世界に成るが・・・自由も、この一つの束縛の中に有ると言う考えが、民主義国家に成り難い、本質に有る。
色んな価値観が有る、之を前提に考える、当然、その違いを知る・又、容認できるような人間力が問われると言う事に成る。
しかし、この哲学的部分でも問題が出て来る・・・全ての人が、言って・見せて・させて・解るか・・・何度しても解らない人も厳然と要る。
この事は、何度も努力をして、相手の成長を考えたが、出来ない人が居ると言う事、之を、常識外と言うなら、その常識の許容力が無いと言う事・・・
しかし、如何すればと成る。全ての策を尽くしたが???・・・・此処からが命の次元に成って行く、之を、哲学者が言っている、哲学を越えた部分だと私は考えている。
今世紀はこの部分に光が当たると私は考えている。
誰が決めたか解らない、常識を誰しもが信じている。この事は、一つの決まった価値観の中で生きる人が、一般人と言う事に成る。之は自由主義か????・・・・民主主義か???・・・
結局は、利を与えてくれる、大樹の陰に入る、之が正しいと成れば、負の人達を、覆う寛容さ等の人は出てこない・・・・
自由で無く・・・力加減、その力も理に関する事・・・その力が有る事が勝ちと成る。
若し、利を与えてくれる、大樹と思っているが、その大樹は、陰に入った人達の、血と汗を吸って大きく目立って居たら・・・・怖い、独裁的、環境集団と言う事にも成る。
よく昔は、お天道様が見ていると、言う戒めが有った。
お天道様は何を見ているか????何を評価しているか????
楽して、利を得るこの生き方が良いと評価しているか???・・・・・・・
若し、死後、閻魔大王の前に言った時に・・・どう裁かれるか???・・・・
行動以上の対価を頂く、之を幸せと言うなら・・・・行動以下の対価しか頂けない人を創っている。
私は、この様な事で幸だとは考えていない、単純に、対価の利を多く得た位・・・・
多く頂いた事で、幸や幸福を感じているなら、当然、奉仕も出来る、之が出来ないと言う事は、当然の対価だと思っている。
この当然が、もっと対価が欲しいと言う方向に向かう・・・
その対価、利をどう使うかがその人の価値観に成るが・・・この発想で行けば、一流・優秀な人がする事で、庶民は何もしないで良いという価値観に成る。
私は同じ価値観で、単に運が良かった程度・・・庶民と価値観と一緒と思っている。
しかし、自由の国・アメリカも一極に集中させる、方向性へ向かっている。
価値観の多様化を逆進しだした・・・・・特に、一神教の天地を創る目的のアメリカ最初から矛盾を孕んでいる。
色々な人が居る、その事は色んな神も居ると言う事に成る。
神は正義・力が有ると言うなら、目の前で溺れている子を、泳げない私が助けなくても良い・・・しかし、前後の見境なく、飛び込むのが、無知でバカな庶民だと思う・・・・
救うに値しない等々の、判断が付く、立場なら良いが・・・・私はそのレベルも無いので、悪人でさえ、飛び込むと思う・・・・之を本当にバカと言うなら、私はバカが多い世界が居心地が良いと思う・・・・
しかし、悪人と解る、神の力が有っても、一時の懺悔をすれば、救うと成れば・・・その後の行動は当然、善人として二成るが・・・悪人のままなら、庶民と同じである。
結局は、人間の本質の、益々の探求が求められる時代に成っている。
この部分が、何を持って、幸福と言うのか????之を、確り、探求する事だと思う。
生きている、これ自体が幸福だし、感謝と思える様にな成れば、必然的に感謝のお返しが出来る。
生きる事が苦痛なら・・・・悔いと恨みしか残らない・・・・
理想論等々も、到底無理と思えるものは簡単に言えるし、当然同じ価値観を持っている人しか居なければ、元より理想だから無理だと、聞いている。
この無理と感じる事は、逆に人は簡単に口にできると言う事・・・・誰も信じて居ないし、その場しのぎと理解している事に成る。
仮に、走りが遅い人が、絶対に今度は一等賞と言っても、誰も期待しないし、誰も信じて居ないので、この事で、嘘を言ったと言われる事は無い、この表現は、出来ない夢だと捉えている。
しかし、仮に、最後尾から二番目を、今回の目標と言った場合・・・・誰も信じないか????
若し、信じる人が居るなら、その人に対して、裏切った事に成るし、嘘を言った事に成る。
出来そうもない、事を言う事は、理想と言うより、見栄、どうせ出来ない、等々が頭に過る為に、耳に入り方は良い事に成るし、逆に言う事も楽に成る。
仮に、私がブログによく書く、利己主義・・・・この反対語は利他主義と一般的には成る。出来そうもないので、耳に痛みを感じない・・・又、誰しも期待しないので、口に出す事も簡単に成る。
しかし、利己・・・この言葉は、利と己で構成されている。
この己を他とする事と同じで、己はそのままに、利を、負と置き換えると成る・・・・
負己主義と言う事に成る。
社会には利は少ない、誰しもが求めているので、当然、利は残っていない。しかし、負は、誰しもが負から逃げようとする人が多いので、社会には多々あるし、現実は負しか残っていないと言う世界が現代に成る。
負を得る事が難しくなく、簡単だと言う事・・・・何もしなければ、結果的に負を背負う方向に成るのが現代と言う事に成る。
先に書いた様に、反対語で、利己主義の反対が、仮に、負己主義とすると、当然、簡単に直ぐに背負う事が出来る現実が有る。この言葉を聞けば、直ぐにイメージできる、周りで困っている人の顔が浮かぶ・・・・
その問題を共に解決・背負う事が出来るか????出来ないし、若し言えば、当然、誰しもが期待するし、出来ないと直ぐに、出来ない事を言ってと、非難される。
若干だが意味が違うが、利他主義と負己主義・・・同意語と私は考えている。
この部分も一神教の価値観が、入って来ているので、利益が出た場合は、他人に少し施しをと言う意味に捉える人が居る。
先ずは、自分が十分な利に浸り、溢れた部分は他人と言う考えに成る。この考えなら、利他主義等々簡単に言える。何故出来ないのか???と問われても、現状では、まだ自分が満たされていない為と、言える。
何時、満たされたと感じるか、永遠に無いだろうと成る。
利に対する人間の慾は、無限に深い・・・・・
負己主義なら・・・間の前に落ちている負を背負うだけで簡単だが、当然、自分の利等得る事が出来ない。この損と言う価値観が、結果的に多々落ちている負を気付かない方向に意識を向けている。
利は、追わなければ逃げる・・・しかし、負は、負の方から追って来るし、足を掴もうとする。
この様な特性が有るので、負を背負うと成ると簡単に背負えると言う事、それに耐えれるかが問題に成る。
有りえない・誰しもと言う、事を言う人も多い、しかし、日本国は自由主義陣営に成っている・・・各自の価値観に即して生きれる世界と言う事
他からの・強制・束縛・受けない、自己の思い、哲学・価値観で生きれる世界に成るが・・・自由も、この一つの束縛の中に有ると言う考えが、民主義国家に成り難い、本質に有る。
色んな価値観が有る、之を前提に考える、当然、その違いを知る・又、容認できるような人間力が問われると言う事に成る。
しかし、この哲学的部分でも問題が出て来る・・・全ての人が、言って・見せて・させて・解るか・・・何度しても解らない人も厳然と要る。
この事は、何度も努力をして、相手の成長を考えたが、出来ない人が居ると言う事、之を、常識外と言うなら、その常識の許容力が無いと言う事・・・
しかし、如何すればと成る。全ての策を尽くしたが???・・・・此処からが命の次元に成って行く、之を、哲学者が言っている、哲学を越えた部分だと私は考えている。
今世紀はこの部分に光が当たると私は考えている。
誰が決めたか解らない、常識を誰しもが信じている。この事は、一つの決まった価値観の中で生きる人が、一般人と言う事に成る。之は自由主義か????・・・・民主主義か???・・・
結局は、利を与えてくれる、大樹の陰に入る、之が正しいと成れば、負の人達を、覆う寛容さ等の人は出てこない・・・・
自由で無く・・・力加減、その力も理に関する事・・・その力が有る事が勝ちと成る。
若し、利を与えてくれる、大樹と思っているが、その大樹は、陰に入った人達の、血と汗を吸って大きく目立って居たら・・・・怖い、独裁的、環境集団と言う事にも成る。
よく昔は、お天道様が見ていると、言う戒めが有った。
お天道様は何を見ているか????何を評価しているか????
楽して、利を得るこの生き方が良いと評価しているか???・・・・・・・
若し、死後、閻魔大王の前に言った時に・・・どう裁かれるか???・・・・
行動以上の対価を頂く、之を幸せと言うなら・・・・行動以下の対価しか頂けない人を創っている。
私は、この様な事で幸だとは考えていない、単純に、対価の利を多く得た位・・・・
多く頂いた事で、幸や幸福を感じているなら、当然、奉仕も出来る、之が出来ないと言う事は、当然の対価だと思っている。
この当然が、もっと対価が欲しいと言う方向に向かう・・・
その対価、利をどう使うかがその人の価値観に成るが・・・この発想で行けば、一流・優秀な人がする事で、庶民は何もしないで良いという価値観に成る。
私は同じ価値観で、単に運が良かった程度・・・庶民と価値観と一緒と思っている。
しかし、自由の国・アメリカも一極に集中させる、方向性へ向かっている。
価値観の多様化を逆進しだした・・・・・特に、一神教の天地を創る目的のアメリカ最初から矛盾を孕んでいる。
色々な人が居る、その事は色んな神も居ると言う事に成る。
神は正義・力が有ると言うなら、目の前で溺れている子を、泳げない私が助けなくても良い・・・しかし、前後の見境なく、飛び込むのが、無知でバカな庶民だと思う・・・・
救うに値しない等々の、判断が付く、立場なら良いが・・・・私はそのレベルも無いので、悪人でさえ、飛び込むと思う・・・・之を本当にバカと言うなら、私はバカが多い世界が居心地が良いと思う・・・・
しかし、悪人と解る、神の力が有っても、一時の懺悔をすれば、救うと成れば・・・その後の行動は当然、善人として二成るが・・・悪人のままなら、庶民と同じである。
結局は、人間の本質の、益々の探求が求められる時代に成っている。
この部分が、何を持って、幸福と言うのか????之を、確り、探求する事だと思う。
生きている、これ自体が幸福だし、感謝と思える様にな成れば、必然的に感謝のお返しが出来る。
生きる事が苦痛なら・・・・悔いと恨みしか残らない・・・・
無限地獄・・・何故、選ぶのか・・・
現代の、日本国民は、何故、不幸に向かう、無限地獄の価値観を選ぶのか???
信用と信頼と言う、二つの言葉・単語を使って説明しても、解ると私は考えている。
信用は、カタログスペック・・・当然、今の環境で良い方向を目指す。
之が意味する事は、悪い部分は載せない・・・良い部分は拡大して載せる。
之が意味する事は、粉飾した、スペックと成る。
このスペックで、信用してもらう・・・之が意味する事は、信用な価するスペックに対しての対価を相手は求めている。
粉飾したスペックで対価はそれ以上・・・・当然、不可能に近い方向に向かう・・・
之が意味する事は、何度が書いているが、信用したのに裏切られた・騙された、この様な方向性に成り易いと言う事に成る。
10円の能力しかないのに、粉飾して、100円の能力が有る様なスペック・・・・負の部分は載せないので、借金返しが、10円有る部分は、スペックから消す。
現代は個人情報法の絡みで、個人で相手の信用調査は出来ない。
結果、見える部分のスペックで・・・・最低でも100円の能力が有ると、期待し、色々与える。
しかし、現実には、借金も有るので、0円の人・・・・当然、100円の期待が全て裏切られる。
せめて、50円・せめて、10円と思うが、負の部分は見えない。
結果、裏切られた騙されたと成る。
金融機関は、個人情報法の壁を超える事が出来るし、その承認を本人に取る、結果として負の部分も確り知っている・・・・この状態で騙されるなら、之は、金融機関が無能だったと成る。
貸付側に落ち度が大きいと私は考えている。勿論、色んな保障・担保を握っているので、損するような事が無いのが、金融機関に成る。
一般の人は、情報にも限界がある・・・・この状態で信用等出来ると言う事は、一般以上の立場・力が有ると言う事を意味している。
以前、銀行に私は、信用して金を貸せと言った事が有るが、裏付けが要ると言われた。結局、信用して貸していると言う事で無いらしい・・・銀行も商売・・・・
この損得勘定が何故か、信用と勝手に一般人は思って居る様だ・・・
之が常態化し、普通と成ると、信用と言っても、対価を正確に頂く、之が求められる、勿論、信用していると言う人に対して・・・・
之を私は感じるので、人様から信用されたいとは考えていない・・・他人様が求める対価を与える事は出来ないと、解っているから・・・・・
信用されるから、多大な要求をされる、之を断れば、騙されたと成る。
現代は、信用される人に成りたいと考え、正直なスペック、負も含めて表面化して居る人が多いとは言えない。
之が、意味する事は、最終的に恨む人達を増やす方向に成る。
仮に、私が何時も書くように、一流で優秀な、プロみたいな人が多い世界、之を其のまま信用すれば、当然、容貌や期待・対価も高く成る・・・・答える事が出来れば、良い社会だが、若し、粉飾して、この立場と、自称しているなら・・・当然、対価は少なく、この差が、不満や恨みに繋がって行く。
私が、色んな世界で異端児と成るのもこの部分を強く意識しているから・・・・三流で異端児の変わり者、信用して近づく人は居ない・・・・
しかし、信用される様なスペックでないが・・・何故か人が集まって来る。
之も信頼だと考えている。この信頼に答えたいと成るのは当然・・・・
こんな私にと感謝の念が出るし、感謝の思いが有れば、お返しをしたいと当然思う・・・
しかし、カタログスペックを粉飾する、命の人なら、騙してやった・・・俺の力等々、思うのも当然だと私は考えている。
この基本部分に成る、価値観を、本来、日本人と違う、西欧・大陸的・価値観へ誘導し、無限地獄観が、社会の当然の姿と価値観に刷り込んでいる。
結果、人より勝てば全て良し、当然、之が幸福感と成って行く。
命の次元で言えば、低いので、之より上の次元の人なら、直ぐに見えるし解ると思うが、若しかすると人の命が、この次元まで下がってしまったなら・・・怖いと私は考えている。
信用と信頼と言う、二つの言葉・単語を使って説明しても、解ると私は考えている。
信用は、カタログスペック・・・当然、今の環境で良い方向を目指す。
之が意味する事は、悪い部分は載せない・・・良い部分は拡大して載せる。
之が意味する事は、粉飾した、スペックと成る。
このスペックで、信用してもらう・・・之が意味する事は、信用な価するスペックに対しての対価を相手は求めている。
粉飾したスペックで対価はそれ以上・・・・当然、不可能に近い方向に向かう・・・
之が意味する事は、何度が書いているが、信用したのに裏切られた・騙された、この様な方向性に成り易いと言う事に成る。
10円の能力しかないのに、粉飾して、100円の能力が有る様なスペック・・・・負の部分は載せないので、借金返しが、10円有る部分は、スペックから消す。
現代は個人情報法の絡みで、個人で相手の信用調査は出来ない。
結果、見える部分のスペックで・・・・最低でも100円の能力が有ると、期待し、色々与える。
しかし、現実には、借金も有るので、0円の人・・・・当然、100円の期待が全て裏切られる。
せめて、50円・せめて、10円と思うが、負の部分は見えない。
結果、裏切られた騙されたと成る。
金融機関は、個人情報法の壁を超える事が出来るし、その承認を本人に取る、結果として負の部分も確り知っている・・・・この状態で騙されるなら、之は、金融機関が無能だったと成る。
貸付側に落ち度が大きいと私は考えている。勿論、色んな保障・担保を握っているので、損するような事が無いのが、金融機関に成る。
一般の人は、情報にも限界がある・・・・この状態で信用等出来ると言う事は、一般以上の立場・力が有ると言う事を意味している。
以前、銀行に私は、信用して金を貸せと言った事が有るが、裏付けが要ると言われた。結局、信用して貸していると言う事で無いらしい・・・銀行も商売・・・・
この損得勘定が何故か、信用と勝手に一般人は思って居る様だ・・・
之が常態化し、普通と成ると、信用と言っても、対価を正確に頂く、之が求められる、勿論、信用していると言う人に対して・・・・
之を私は感じるので、人様から信用されたいとは考えていない・・・他人様が求める対価を与える事は出来ないと、解っているから・・・・・
信用されるから、多大な要求をされる、之を断れば、騙されたと成る。
現代は、信用される人に成りたいと考え、正直なスペック、負も含めて表面化して居る人が多いとは言えない。
之が、意味する事は、最終的に恨む人達を増やす方向に成る。
仮に、私が何時も書くように、一流で優秀な、プロみたいな人が多い世界、之を其のまま信用すれば、当然、容貌や期待・対価も高く成る・・・・答える事が出来れば、良い社会だが、若し、粉飾して、この立場と、自称しているなら・・・当然、対価は少なく、この差が、不満や恨みに繋がって行く。
私が、色んな世界で異端児と成るのもこの部分を強く意識しているから・・・・三流で異端児の変わり者、信用して近づく人は居ない・・・・
しかし、信用される様なスペックでないが・・・何故か人が集まって来る。
之も信頼だと考えている。この信頼に答えたいと成るのは当然・・・・
こんな私にと感謝の念が出るし、感謝の思いが有れば、お返しをしたいと当然思う・・・
しかし、カタログスペックを粉飾する、命の人なら、騙してやった・・・俺の力等々、思うのも当然だと私は考えている。
この基本部分に成る、価値観を、本来、日本人と違う、西欧・大陸的・価値観へ誘導し、無限地獄観が、社会の当然の姿と価値観に刷り込んでいる。
結果、人より勝てば全て良し、当然、之が幸福感と成って行く。
命の次元で言えば、低いので、之より上の次元の人なら、直ぐに見えるし解ると思うが、若しかすると人の命が、この次元まで下がってしまったなら・・・怖いと私は考えている。
知らず・知らずに洗脳される。
先のブログの続きに成るが・・・
最近、信用と言う単語がよく耳に入る。
逆に信頼と言う言葉が耳に入らなくなった。
昔は、信頼関係・・・之が当たり前だった。
私が幼いころは、地域社会は信頼関係で繋がっていた。
当然、人の集団・・・好き嫌いも有るし、個性も色々・・・しかし、信頼・・・之が有った。
塩が無い、隣に借りに行く・・・・何グラム等々、小さな事は無いし、返すと言うより、お互いさまと言う考えが強かった。
電話を借りる、取り次ぎをする・・・之もお互い様だが、相手に電話が無いので、無償の奉仕に成る。
全体で考えていたと言う事・・・・・・・振舞い方も含めて、返して頂くと言う、発想が有ったし、信頼だから、損得勘定等が入って無かったし、逆に損したと言う思いが出てくれば、この信頼関係も成り立たなくなって行く・・・・
仮に、塩を借りる・・・同然、グラム数・・塩のレベル・返済期限等々を、確り決めて、貸借をする世界が現代に成る。
以前、子育てで、高齢のオバさん達が、子供について悔やんで有ったのが・・・この部分が基本に有る。
子供に投資したと考えて居られる・・・それを親の愛情等々で、若い時は飾った表現をして居れば、子供もその様に感じている。
本来、投資と考えれば、小さな数字等々も、残して行く・・書面として之ほど投資したと言う証拠が必要に成る。
之も、無いのに、自分が投資した対価を子供に求めている。
この様な場合も、よく子供を信用していたのにと成る・・・・自分の子供を信用出来るか???私は出来ない・・・・信頼は出来るが、信用は出来ない・・・
孫が今月一人増えたが・・・信用出来るか????・・・信頼は出来るし、将来を託す事が出来る人が出来たと成る。
何を託すか????この部分が各自で違う・・・・東大に入れたいと思う・・・思うだけで、入れる子供も居る・・・・多大に投資しなければ無理な子供も居る。
同じ結果だが、それまでの手段や策が違うし、周りの取り巻きの思い、投資も違って来る。
子供も人格が有るし、夢も有る・・・周りの慾と・本人の慾との差も当然出て来る。
現代は、結果として、生き難い方向性へ誘導しているし、洗脳させている。
赤子・子供にも、受領書・確認書への氏名・捺印をさせる方向に向かっている。当然、不可能であるが、之を求める世界に成って行っている。
先のブログにも書いているが、生まれた子供に、信用して今後の投資を考えているか???
信用出来る、カタログスペックが有るか???
このスペックを求めれば、先ずは、親のDNA等々の部分まで必要に成って行く・・・
身長が高い・IQが高い・身体的欠点が無い・容貌が綺麗・勿論言葉も成るので、綺麗な標準語を使っている父母・・・・等々・・・・子供を儲ける前からのカタログスペックに成れば、当然、結婚する人も居なくなるし、簡単に書けば、家畜に準じる人間と言う事に成る。
しかし、競馬の世界の馬でも、父母が優秀な遺伝子を持っていても、勝てる馬が出来ない場合もある。
この部分も博打に近いし、確率が高いか・低いかの問題に成る。
若し、駄馬なら、殺処分も出来るが、人間なら・・・・・若しかすると今後はこの方向に向かうかもしれない。
希少なカップルの、スペックが優れている、二人が結婚した・・・子供の期待が大きく成る。
親のカタログスペックを信用したが、結果として騙された、裏切られた・・・
子供さえ、この様な価値観で捉える・・・之が良い価値観だから広がっていると思う・・・
之が他人の夫婦なら・・・お互いが信用したのに、各々が裏切られた・騙されたと・・・恨み続ける。
本当に、この様な価値観で良いのかと私は考えている。
自分の勝手な慾が、叶えられない・・・之を騙された裏切られたと言える世界。
又、この様な言動をしても、恥ずかしいと思わない価値観・・・怖いと私は考えている。
私は、言動振舞い、見える風貌を総合すると、現代の評価なら信用できないカタログスペックに成る。だから、信用をされる等々、思っても居ない・・・・しかし、信頼はして頂きたいと、地域事、等々のお手伝いをしている事に成る。
同じ事で、嫁に対しても子供達に対しても、信用等々して貰う事はないと考えている。しかし、信頼程度を期待している。
私の場合、成長に伴い、経験も付き、考え方が変わって来ている。
若い頃は、カタログスペックが大事だと考えていたしそれが信用に繋がり、この部分が人としての規準・基本と思っていた。。しかし、結婚、親に成ると、之が無い子供が出て来る。何を信用して育てるか???良く考えると、私も嫁もカタログスペックは悪い・・・・その遺伝子を受け継ぐ子供は、当然、スペックが低いので、信用調査で、NG・・・私は知らないと言えるか???
言えない・・・又、見殺しにも出来ない・・・それなら、信用で無く、信頼して育てるしかないと私は考えが変わった。
当然、子供、成長・発展が期待される。
しかし、今度は、両親の老いと、介護に成る・・・・将来に向かい、退化と衰えに対して、期待できるか????・・・・無い・・・・
しかし、親も、私を育てる為に、私が感じた、信頼を私に多々与えてくれた・・・・この信頼を返す時だと考えれば、将来に対しての行動も出来る方向に成った。
しかし、私の場合、結婚以降・・・父の商売の倒産が有ったので、父母を食わせる、この責任が背中に乗った。
有る時、母に、10年以上、生活を看て来た・・・・そろそろ私の自由にさせてくれと言った。二人で計算上、私を二十歳まで食わせてくれた親に対して、損得は終わったと考えていたが・・・
お前は、機械か・・・計算機で、銀行と同じか・・・私は、人間を育てて来たつもりで有ると言われた。
機械なら、性能が無い、お前を、昔に廃棄処分したと言われた。
言い返す、言葉が無かった。
何を育て、何が生きているか????私は機械で無い人間だと考えている、この人間が構成しているのが、社会だと信じている。
先に書いた、知らず・知らずに、洗脳させられている。
結局人の評価は????信用・・・信用は、カタログスペック・・・之が高いか・低いか、当然、その人を見る側の価値観で成る。
見る側で決まると言う事、この見る側は、最終的に、カタログスペックの規準を創っている、権力者に成る。
信頼とは、カタログスペック等で決まる部分で無い・・・各自で変わるし、色んな振舞い方が有る筈。
他人は評価しないが、私は評価できると言う部分も有る筈・・・全てマイナスの評価だが、周りを見れば、誰も居ない、居ないなら、私が・・・この様な考え、価値観も有ってよいと私は、考えている。
その為に、正しいと言う部分は人の数、有ると私は考えているが、この部分が一極化に向かう・・・之が怖いし、之が、人の争いに対して正当性を与えて行く・・・
一神教社会に多い価値観に成る。
この価値観に、多神教の日本国民が向かっている、之を私は危惧している。
最近、信用と言う単語がよく耳に入る。
逆に信頼と言う言葉が耳に入らなくなった。
昔は、信頼関係・・・之が当たり前だった。
私が幼いころは、地域社会は信頼関係で繋がっていた。
当然、人の集団・・・好き嫌いも有るし、個性も色々・・・しかし、信頼・・・之が有った。
塩が無い、隣に借りに行く・・・・何グラム等々、小さな事は無いし、返すと言うより、お互いさまと言う考えが強かった。
電話を借りる、取り次ぎをする・・・之もお互い様だが、相手に電話が無いので、無償の奉仕に成る。
全体で考えていたと言う事・・・・・・・振舞い方も含めて、返して頂くと言う、発想が有ったし、信頼だから、損得勘定等が入って無かったし、逆に損したと言う思いが出てくれば、この信頼関係も成り立たなくなって行く・・・・
仮に、塩を借りる・・・同然、グラム数・・塩のレベル・返済期限等々を、確り決めて、貸借をする世界が現代に成る。
以前、子育てで、高齢のオバさん達が、子供について悔やんで有ったのが・・・この部分が基本に有る。
子供に投資したと考えて居られる・・・それを親の愛情等々で、若い時は飾った表現をして居れば、子供もその様に感じている。
本来、投資と考えれば、小さな数字等々も、残して行く・・書面として之ほど投資したと言う証拠が必要に成る。
之も、無いのに、自分が投資した対価を子供に求めている。
この様な場合も、よく子供を信用していたのにと成る・・・・自分の子供を信用出来るか???私は出来ない・・・・信頼は出来るが、信用は出来ない・・・
孫が今月一人増えたが・・・信用出来るか????・・・信頼は出来るし、将来を託す事が出来る人が出来たと成る。
何を託すか????この部分が各自で違う・・・・東大に入れたいと思う・・・思うだけで、入れる子供も居る・・・・多大に投資しなければ無理な子供も居る。
同じ結果だが、それまでの手段や策が違うし、周りの取り巻きの思い、投資も違って来る。
子供も人格が有るし、夢も有る・・・周りの慾と・本人の慾との差も当然出て来る。
現代は、結果として、生き難い方向性へ誘導しているし、洗脳させている。
赤子・子供にも、受領書・確認書への氏名・捺印をさせる方向に向かっている。当然、不可能であるが、之を求める世界に成って行っている。
先のブログにも書いているが、生まれた子供に、信用して今後の投資を考えているか???
信用出来る、カタログスペックが有るか???
このスペックを求めれば、先ずは、親のDNA等々の部分まで必要に成って行く・・・
身長が高い・IQが高い・身体的欠点が無い・容貌が綺麗・勿論言葉も成るので、綺麗な標準語を使っている父母・・・・等々・・・・子供を儲ける前からのカタログスペックに成れば、当然、結婚する人も居なくなるし、簡単に書けば、家畜に準じる人間と言う事に成る。
しかし、競馬の世界の馬でも、父母が優秀な遺伝子を持っていても、勝てる馬が出来ない場合もある。
この部分も博打に近いし、確率が高いか・低いかの問題に成る。
若し、駄馬なら、殺処分も出来るが、人間なら・・・・・若しかすると今後はこの方向に向かうかもしれない。
希少なカップルの、スペックが優れている、二人が結婚した・・・子供の期待が大きく成る。
親のカタログスペックを信用したが、結果として騙された、裏切られた・・・
子供さえ、この様な価値観で捉える・・・之が良い価値観だから広がっていると思う・・・
之が他人の夫婦なら・・・お互いが信用したのに、各々が裏切られた・騙されたと・・・恨み続ける。
本当に、この様な価値観で良いのかと私は考えている。
自分の勝手な慾が、叶えられない・・・之を騙された裏切られたと言える世界。
又、この様な言動をしても、恥ずかしいと思わない価値観・・・怖いと私は考えている。
私は、言動振舞い、見える風貌を総合すると、現代の評価なら信用できないカタログスペックに成る。だから、信用をされる等々、思っても居ない・・・・しかし、信頼はして頂きたいと、地域事、等々のお手伝いをしている事に成る。
同じ事で、嫁に対しても子供達に対しても、信用等々して貰う事はないと考えている。しかし、信頼程度を期待している。
私の場合、成長に伴い、経験も付き、考え方が変わって来ている。
若い頃は、カタログスペックが大事だと考えていたしそれが信用に繋がり、この部分が人としての規準・基本と思っていた。。しかし、結婚、親に成ると、之が無い子供が出て来る。何を信用して育てるか???良く考えると、私も嫁もカタログスペックは悪い・・・・その遺伝子を受け継ぐ子供は、当然、スペックが低いので、信用調査で、NG・・・私は知らないと言えるか???
言えない・・・又、見殺しにも出来ない・・・それなら、信用で無く、信頼して育てるしかないと私は考えが変わった。
当然、子供、成長・発展が期待される。
しかし、今度は、両親の老いと、介護に成る・・・・将来に向かい、退化と衰えに対して、期待できるか????・・・・無い・・・・
しかし、親も、私を育てる為に、私が感じた、信頼を私に多々与えてくれた・・・・この信頼を返す時だと考えれば、将来に対しての行動も出来る方向に成った。
しかし、私の場合、結婚以降・・・父の商売の倒産が有ったので、父母を食わせる、この責任が背中に乗った。
有る時、母に、10年以上、生活を看て来た・・・・そろそろ私の自由にさせてくれと言った。二人で計算上、私を二十歳まで食わせてくれた親に対して、損得は終わったと考えていたが・・・
お前は、機械か・・・計算機で、銀行と同じか・・・私は、人間を育てて来たつもりで有ると言われた。
機械なら、性能が無い、お前を、昔に廃棄処分したと言われた。
言い返す、言葉が無かった。
何を育て、何が生きているか????私は機械で無い人間だと考えている、この人間が構成しているのが、社会だと信じている。
先に書いた、知らず・知らずに、洗脳させられている。
結局人の評価は????信用・・・信用は、カタログスペック・・・之が高いか・低いか、当然、その人を見る側の価値観で成る。
見る側で決まると言う事、この見る側は、最終的に、カタログスペックの規準を創っている、権力者に成る。
信頼とは、カタログスペック等で決まる部分で無い・・・各自で変わるし、色んな振舞い方が有る筈。
他人は評価しないが、私は評価できると言う部分も有る筈・・・全てマイナスの評価だが、周りを見れば、誰も居ない、居ないなら、私が・・・この様な考え、価値観も有ってよいと私は、考えている。
その為に、正しいと言う部分は人の数、有ると私は考えているが、この部分が一極化に向かう・・・之が怖いし、之が、人の争いに対して正当性を与えて行く・・・
一神教社会に多い価値観に成る。
この価値観に、多神教の日本国民が向かっている、之を私は危惧している。
信頼が・・・行動に繋がる。
昨夕・・・地域の人が、地域事の依頼で、来訪されたが・・・私の仕事が有り、申し訳ないが、夜か明日にとお願いした。
昨日、心配してた高校の学友の件もあるが・・・・
私は、人を信用しないと言うより・・・・信用とは????と考えている。
何度が書くが、信用とは、之までの過去の評価・・・・当然評価する人は私なら信用と言う言葉を使えるが・・・殆どは第三者・特に社会の底辺の人達の評価と言うより・・・立場の高い人の評価に成る。
結果、全ての面を通しての、評価でないが・・・何故かそれを信用と成っている。
之がカタログスペックとして・・・信用と成っている・・・・しかし、逆の側面も有ると言う事・・・
地域事も、私は出来るだけ協力したいと考えている。地域を信用しているか???又、その担当者等を信用しているか????・・・・私は信頼しているので、行っている。
私自身が、勝手に行っている事に成るし・・・・それで問題が発生すれば、当然、私の責任に成る。
しかし、私の周りに、耳に入る話等を、考えると・・・・全ての行動に対して、対価を求める・・・対価が後払いの場合、何故か信用したので、行ったが・・・・その対価を得る事が出来ず・・裏切られた等々の話が耳に入る。
結局は、カタログスペックを信じたと言う事、それも一面だけのスペックを信じる・・・此処まで人とは単純なのか???と私は驚いている。
私の、知り合い・友には、代議士も居るし、医者も居る・・・・この目立つ肩書有っても、私はその人自身をある程度知っているので、この私が知っている部分で、物事を考えている。
あの肩書が有るのに????と・・・言う人が多いが・・・・彼がその様な事をするのは昔から、彼の個性だし、特徴・・・・それを後に成って、問題と言い出す。
結局は、その人を知らない、之が問題に成る。
人を知らないで、何故、信用してしまうのか????私は解らない。
又、カタログスペック・・・機械なら少しは私も解るが・・・人は、変化する・・・良い方向か悪い方向に・・・・
この部分を加味して信用しているか????私は疑問が有る。
何度も、人は人と私は書き続けている。
しかし、現代は、普遍的に変化しないものとして、信用しているという言葉を使っている。
変化しない人など居ない・・・之が私の価値観に成る。
以前書いているが、私の尊敬する先輩が、私を信用しないで下さい・・・信頼までに止めてくださいと私が二十歳の時に言われた、勿論、その意味・理由も教わった・・・先輩は今、国の代議士として頑張っておられる。
その時、教わったのが、上に書いた、誰が作ったか解らない、カタログスペックを信じないで、自分自身の心のノートに、刻み続ける事だと・・・・永遠と言う事に成る・・・人は寿命が有るので、現世では、命尽きるまで、人の評価等出来ないと言う事に成る。
しかし、信頼は、自分が勝手に信頼し、期待する。その期待に応じた行動を、勝手にしている事に成る。
この行動を、相手はどう取るか???当然、鬱陶しいと言う人も居るし、恩を感じる人も居る。
お節介の、捉え方に成る。
勿論、相手でも代わるし、立場でも代わる部分に成る。
之も書いているが・・・・ジュースをおごる・・・この行為で、赤の他人は、感謝の念を言葉にされる。
実子にすると、好き嫌い等々、自分の慾を一気に表面化する。
どっちの行動も堅実に成る・・・しかし、感謝を対価として求めるなら・・・・当然、他人にした方が良いと成る。
之も、行動に対しての対価の関係性に成る。
信用は、狭い範囲で終結する。
信頼は、大きく広がる、方向性が有る。
信頼に、応える、之は、この様な価値観振舞い方が出来る。事が大事だし、若し之をしながら余力が有れば、恩を受けた人に返すと成る。
恩と広げて行く事に成る。
之が有る社会は、心地よい環境だと私は考えている。
私は色んな人から恩を頂いている、それを社会に広げて行く事しか出来ない、未だに余力が無いので、恩を頂いた人に返す事が出来ないでいるが・・・
之も、私の力等々の無さを知って、受けた恩と考えれば、先ずは・・・・何に・・・・之を考えている。
私の子供の数と同じ・・・・一受けた恩は、社会に二倍にして返す・・・・余力が有れば、恩を頂いた人に返す事も出来るが・・・・未だに社会に二倍の恩を、返していない。
信用と言う価値観で事を考えれば、イーブンの方向に向かう・・・プラマイ0・・・が規準と成る・・・発展性が無いと私は考えている。
昨日、心配してた高校の学友の件もあるが・・・・
私は、人を信用しないと言うより・・・・信用とは????と考えている。
何度が書くが、信用とは、之までの過去の評価・・・・当然評価する人は私なら信用と言う言葉を使えるが・・・殆どは第三者・特に社会の底辺の人達の評価と言うより・・・立場の高い人の評価に成る。
結果、全ての面を通しての、評価でないが・・・何故かそれを信用と成っている。
之がカタログスペックとして・・・信用と成っている・・・・しかし、逆の側面も有ると言う事・・・
地域事も、私は出来るだけ協力したいと考えている。地域を信用しているか???又、その担当者等を信用しているか????・・・・私は信頼しているので、行っている。
私自身が、勝手に行っている事に成るし・・・・それで問題が発生すれば、当然、私の責任に成る。
しかし、私の周りに、耳に入る話等を、考えると・・・・全ての行動に対して、対価を求める・・・対価が後払いの場合、何故か信用したので、行ったが・・・・その対価を得る事が出来ず・・裏切られた等々の話が耳に入る。
結局は、カタログスペックを信じたと言う事、それも一面だけのスペックを信じる・・・此処まで人とは単純なのか???と私は驚いている。
私の、知り合い・友には、代議士も居るし、医者も居る・・・・この目立つ肩書有っても、私はその人自身をある程度知っているので、この私が知っている部分で、物事を考えている。
あの肩書が有るのに????と・・・言う人が多いが・・・・彼がその様な事をするのは昔から、彼の個性だし、特徴・・・・それを後に成って、問題と言い出す。
結局は、その人を知らない、之が問題に成る。
人を知らないで、何故、信用してしまうのか????私は解らない。
又、カタログスペック・・・機械なら少しは私も解るが・・・人は、変化する・・・良い方向か悪い方向に・・・・
この部分を加味して信用しているか????私は疑問が有る。
何度も、人は人と私は書き続けている。
しかし、現代は、普遍的に変化しないものとして、信用しているという言葉を使っている。
変化しない人など居ない・・・之が私の価値観に成る。
以前書いているが、私の尊敬する先輩が、私を信用しないで下さい・・・信頼までに止めてくださいと私が二十歳の時に言われた、勿論、その意味・理由も教わった・・・先輩は今、国の代議士として頑張っておられる。
その時、教わったのが、上に書いた、誰が作ったか解らない、カタログスペックを信じないで、自分自身の心のノートに、刻み続ける事だと・・・・永遠と言う事に成る・・・人は寿命が有るので、現世では、命尽きるまで、人の評価等出来ないと言う事に成る。
しかし、信頼は、自分が勝手に信頼し、期待する。その期待に応じた行動を、勝手にしている事に成る。
この行動を、相手はどう取るか???当然、鬱陶しいと言う人も居るし、恩を感じる人も居る。
お節介の、捉え方に成る。
勿論、相手でも代わるし、立場でも代わる部分に成る。
之も書いているが・・・・ジュースをおごる・・・この行為で、赤の他人は、感謝の念を言葉にされる。
実子にすると、好き嫌い等々、自分の慾を一気に表面化する。
どっちの行動も堅実に成る・・・しかし、感謝を対価として求めるなら・・・・当然、他人にした方が良いと成る。
之も、行動に対しての対価の関係性に成る。
信用は、狭い範囲で終結する。
信頼は、大きく広がる、方向性が有る。
信頼に、応える、之は、この様な価値観振舞い方が出来る。事が大事だし、若し之をしながら余力が有れば、恩を受けた人に返すと成る。
恩と広げて行く事に成る。
之が有る社会は、心地よい環境だと私は考えている。
私は色んな人から恩を頂いている、それを社会に広げて行く事しか出来ない、未だに余力が無いので、恩を頂いた人に返す事が出来ないでいるが・・・
之も、私の力等々の無さを知って、受けた恩と考えれば、先ずは・・・・何に・・・・之を考えている。
私の子供の数と同じ・・・・一受けた恩は、社会に二倍にして返す・・・・余力が有れば、恩を頂いた人に返す事も出来るが・・・・未だに社会に二倍の恩を、返していない。
信用と言う価値観で事を考えれば、イーブンの方向に向かう・・・プラマイ0・・・が規準と成る・・・発展性が無いと私は考えている。
登録:
投稿 (Atom)