私は、幸福を求めている・・・幸福とは?????・・・・よくよく考えると福や幸と言う部分より、心の安穏を求めているように思える。
福も幸も、良く考えると心の起伏が有る・・・感覚としては良い方向に高まるという感じで有る。しかし、それが続かない・・・結果、己の何時もの場所のポジションに戻る・・・一瞬の快感に感動している程度と言う事に成る。
心の安穏とは????考えると難しいし私には解らないが・・・私が思っている己の何時ものポジションが己の取って大事な事だし、この事に感謝出来れば、心の安穏だと私は考えている。
今、生きているから、心がと思っているのかも知れない・・・しかし、生きているから心が厳然と私には有ると言うのが解る、勿論無いのかの知れないし、勘違い・思い違いかも知れない・・・・しかし、私は厳然と心・命が有ると思っている。この部分が安穏で有る事、此は「生老病死」を確り受入れて、それを全うしたいと願い・祈り、生きる・・・勿論、一人では生きれないのが人間・人様のお陰で生かされ・・・人様のお陰で死んでいける。この事に感謝出来なければ、何の為に生きたのか????意味が無いと私は考えている。
考え想像すれば、人間なら解ると思う。オギャ~~と産まれ・・一個人として生まれるが、多くの人様のお陰で、成長でき・教育を受け、知識を得て知恵も芽生える・・・この恩を返す・・生き方を続け、後継者を育成して老いて病に成り、最終的に死んで行く、当然、この間は、己が育てた後継者等の人々の手を借り生かされ続けるし、死に向かわせて頂いている。
当然、個人主義が台頭してきて、俺しかないと言う価値観の人も居ると思うし、その様な人は、黙って死んでいく・病んでいくしかない、誰も手を貸すわけが無いし、誰も施しを与えない、結果、己の報いが解っているので、人で無い、神や仏に祈る事に成る。病を治して、寿命を延ばしてと、現実に可能なのか????永遠の命等が本当に手に入るのか、勿論、今の身のままで・・・無理で有るのは解っているが、人だから、諦めきれない勿論、己の所業も解っているから、人に頼らず、神や仏と成る傾向が強い・・・これを利用する宗教家もいるし、宗教団体も存在するし、その様な要望が現実に有るなら、その受け入れを考えるのも必然と言う事にも成る。
要は、政治の、宗教も、全て、民意で有る。各々の考え方、価値観が大きく影響していく・・・それに応じた哲学・価値観が発生し出す。
私は、直ぐに、言葉の意味の逆の単語を頭で浮かべることにしている。敵は・・・と罵る人は、味方は何故か褒める・・・・理由は、簡単で有る、己の好みだからに成る。
その人が思うとおりに成る人が味方と言うことは、その人にとって奴隷以下の存在と言う事だし、その様な人には、少しの施しをあげても損が無いと言う価値観に成る。
私は、逆だ、嫌いだから、出来るだけ何が出来るのか・・・嫌と思われるかも知れないが嫌われているなら・・嫌われる様な事、当てつけをしても問題ないと思うタイプで有る。要は、必要以上に施しをする・・・嫌いだから二度と縁を結びたくないという意味が有る。
私は三流だからこの程度、一流の人なら、嫌いでも敵でも、途方もない施しが出来ると思うし、これが出来るから世界が平和に成るのは必然と思える。
しかし、一流の人が、リーダーとして振舞っている世界で、何故か悲惨な戦争が続いている。
大将が出てきてお互いが首と取り合いをすれば良いことだと思うが、全て下々の人々が血を流し、命を落としている。結果、一人で済む命が、大勢の命を貪っていることに成る。
この様な事が出来るから、力、優秀なのか???エリートなのか???
最後まで残り、最後の一人までと徹して守り続けるのかリーダーと思うし、長の一念だと私は思っている。これは三流でも一流でも同じ、人の資質に成る。
資質が悪ければ、当然、一流に成っても、人のリーダーに向かない人も居る。己に自覚が有ると思う。それでもその立場を求めていると言う事は、人より他に目的が有る為になる。名声なのか・お金なのか・・・この部分に執着する人が最終的には、無間地獄のスパイラルに陥っていることにも気付かす進み続け、半狂乱で死に行く事に成る。
この様な、生き方が良いという方向に、今は向かっているし、駄目だと言う方向性も発生しだしている。
要は、環境のとらえ方、それを己の糧に出来るか???負や損と思うと一気に恨みが募るし、被害者意識になる。
同じ環境でも感謝出来る人が居る。しかし、恨む人が居る、どっちが正しいか???今は、被害者と言った方が勝ちの時代・・・要は、憎しみ・恨みを持った方が損を報われる事に成っている。
当然、感謝している人は損と思わないので、感謝だけで終るか・・・仮に負を請求して、対価を頂いたなら感謝出来るのか・・・現実には足らない、又、被害者の立場を維持しようとするのが現実には多い、
結果、被害者を装う人が何故か多い、人との縁、良縁も有るし、当然、悪縁も有る。良縁は何も無いというより、無視・当り前と思い、悪縁は有っら駄目、私は被害者と喚いて、何かを手に入れようとする・・・社会的に皆に良い影響を与えることなら少しは解る。しかし、己だけで事が終っているし、回りは関係無いと言い出すし、無視すれば、被害者を無視したと捉えて、不満を訴え、被害を被ったと訴える。
この様な人が増えるなら、善意で言葉も掛けられない、専門だから少しは詳しいが、それが足を引っ張る可能性が有るから、必要以上の事は言わない、これが、先生と言われる詳しい人達になる。聞いても教えない、効く耳を持った人にしか説明しない、この様な流れに成っていく、理由は捉え方の違いで、犯罪者等に特に資格や免許が有れば、直ぐに成るからに成る。
ドンドン、知識者が知識を出せなくなる。今後、各自が己の力で学ばなければ、教えてくれる人等期待しても、居ない時代になる。
何故なら、人の終焉、誰しも必ず有ることだが、それが情報として流れていない、人の死に方等を、学んでいない、これを今から学ぼうと、関連機を過ぎた年齢の人が思っても遅すぎる・・・諦めた人生になるから、表に見えない・・・死に向かって、コツコツと進み続ける、当然、一人では無理、人様の手を借りながら、これを確り後生の人に見せることも先人の務めだと私は考えている。
一番悔しいのが、何度も書くが、後継者の育成が思うように行かなかった点・・・結果、大事な家族・嫁の手を患わせること・・・有る人に言わせると家族で終るから幸せの方だと言われるが、私の手を使って下さいと出てくる、若人を望んでいたが、無理で有るようだ・・・
言葉は発せない・意思疎通も出来ない・・・体も動かない、それでも生き続ける・・・人の宿命・・・これを辛いと思うのか、幸せだと思うのか、捉え方に成る。