現代は,雄心的部分、物質部分を求め追求することに幸せ、幸福があると,信じ,又宗教自体がこの傾向性を示している。此が意味することは,命の軽視だと私は考えている。以前も書いているが、有名な世界の物理・宇宙学者が,仏法の法華経に本図委がある。南為の学問か????疑問に答えを乱すことと信じておこん成ったが,心の奥底、命が何を求めているのか???人々の幸・幸福のためと気付くと,己の行っていた事に対しての整合性を求める。今話題のAIの技術で動画等が簡単に偽物を本物のように創れる時代に成っている。今はパソコンの画面上だが,今後は立体化して,最終的にはロボットとして人と全く同じに見える。物も出現すると思う。しかし,それに命が有るかと思えるか,当然,人として完璧。生身の人間が失敗も間違いも起す。何方が優れているのか???当然ロボットになるが,人間としての親近感があるか???疑問が有る。
私が考える,生命とは,生きて居る間に活動し得た知識智慧を後生へと積み重ねていく物と思っている,考え様だが,記憶だと思って居る,勿論、命に宿る記憶と考えている。此が機械だと間違いも失敗も起さない回答になるので,結果は決っている。生命・命が有るから,失敗もし、間違いも起すから奇跡も起こせる。機械が100%不可能と言っても,生命・命だと,奇跡の可能性が有る。唯物的に捉えられた,価値観からの出発の現在、21世紀、少しは命、生命と言う部分、唯物的でないが,無いとも言えない、誰一人とも俺には命は存在しないと思って居る人は居ないと思う。見えない命の存在を感じているという事にも成る。
今日は、物理・天文学と文章にも書いているが仏教には宇宙の概念・数字の概念等も書かれている。先ずは数字、日本国は一般的に使う単位がある。世界と倉ゲルと多い・一・十・百・千・万・億・兆・これ以上もある。京・垓・禾予・穣・溝・澗・正・載・極・恒河沙・阿僧祇・那由他・不可思議・無量大数。最後の方は仏法用語から来ているが、1068乗になる。此ほどの単位を駆使していたのが日本人、仏教的にはマイナス側に多々あるが,最小は涅槃寂静10-24乗と成っている。多々の単位があるが,今後書きたい。要は,小さい方の10が何なのかでも違う,仮に1mmと仮定すると、ナノメーター以下の大きさ凄い発想力と思う、この最終小単位の他に,何種類も世界があると説かれている。
必然であるが、奇跡的な存在・・・不可能だが可能にしている世界、相反することが共存している。VSで考えれば消滅する。ANDだから存在し続けている,文法の心になる。