2022年11月6日日曜日

駅伝・・・浪花節

 今日は、全日本大学駅伝をテレビ観戦していた。

たすきを繋げ・・ゴールを目指すという競技になる。

ブログにバトンを渡す等々・・・書いてきたが、たすきも同じで有ると思う。各自の思い・全てと言ってもよいと思うが、それをたすきに込め渡し続けてゴールに・・・当然、走者だけでもない・・・昔からの先輩達の思い等々・文化・歴史も含みで、渡し続ける。

現代では私語に成っているが、浪花節てきな・・・義理人情と言う部分も大事だと思わせる瞬間でも有る。

先人の思い等々と、ブログ上に私はよく使う・・・強く言えば、先命と言った方が本来だと思っている。先の人、人だけとは限らないからに成る。命ある全ての生命に対しての、義務と責任があるし、それに答えるのが・・・生きると言うことだと思っている。

今、難病と闘っていると言うと大袈裟に成る・・・共に生きようと模索中と言った方がよい・・・・勿論、想定していた範囲に止まってくれているから、平常を維持できていると思う。

想定、予想していたと言う事・・・だから、健常な時に出来るだけ、人様の役に立つ、お節介をする・・・・色んなボランティア団体等々に身を置き、己の分で協力する。

ネパールに学校を贈る・・・ペットボトルのキャップ集めで等々・・・ゴミ箱をあさる様な事もしていた。

勿論、学校等の生徒達人、参加を呼びかけ等々も行うが・・・先ずは、己がと何時も思っていた。

この様な経験で、結果的に色んな人を知ることが出来た・・・何度も書くように私は今言われている一般的に人間で無い・・三流だし、劣っているし、嫌われ者だし、異端・・・色んな人を知ることで、こんな私でも幸せだと思うように成った。

人間の姿をしているだけでも、感謝に成る。

私に残された宿題・・・此は、母が言っていた、最低限の人間としての義務と責任を果たせるかに成る。

当然、死の瞬間まで続けることに成る。

体調が悪い、此も想定内・・・嫁を職場に迎えに行く前に、洗濯物の取り込み・飼い犬のリンを、家の中に入れる作業・・・

私の様な、無知で馬鹿と言ってよいと思うが、人間として最低の部分は行いたいと考えている。

今、命があり、生きている、人間として・・・・多々の命のたすきが私の所に来ていると言うこと・・・・色んな生命の生き方、命の繋ぎ方等々も、人なら学べる・・・・その様な重い思いの詰まった、たすきが肩に掛かっていると言うこと・・・・当然、最低でも後を継ぐ人に渡すことに成る。

これが出来る事が、生きると言うことだと思う。

己だけ、利己的に成り・・己以外に関心が無くなる・・・最低の地獄の境地だと私は思っているが、当事者はそれを求めているので、天国だと思っている。しかし、今後・将来と時間軸を伸ばして想像させると、不安・絶望を感じるのか・・未来は地獄だと思っている人が何故か多い・・・

唯物的、己だけと言う限定した幸福等、無いというのが現実、しかし、それを求め信じている人も多い・・・最終的には????想像すると解ると思う・・・


「こんな事も出来なくなった」・・・・・受け入れ、楽しみたい。

 嫁を職場に送り届け・・・・・洗濯物を干す作業を行った。

私の感覚だと15分程で終わると思っていたが・・・・闘病中だし、体力等々の問題も有り・・・約1時間ほど掛かった。

今まで、色んな人が居る、色んな価値観が有る等々・・・多様な方向に私自身の許容力を増やしてきたつもりだが・・・一番の難関が、己の事、当然、成長等の良くなる方向なら受け入れることは容易い・・・出来るように成った。早く処理が出来るようになった等々・・・喜びに直結する。

しかし、老いると言う事、病を患うと言うことは、出来ていたことさえ出来なくなる。時間を要するようになると言うこと・・・これを受け入れる為にも、他人様の多様性を許容できるところまで来ていたが・・・己が鴻出すことに対しては、未だに許容できない部分が有るし、後悔・等々、良い方向の意識にならないのが、私が三流たる証拠とも言える。

何度も書くように、個として己は「生老病死」の四苦から脱する事は出来ない事は、解っているようだが、解っていないと言うこと・・・

勿論、予想程度の対策を行っていたと言うことだし、後継者の育成等々も、本気という部分が薄かったと言うことにも成る。

後継者は創ったつもりだが、己の痒い処に手が届くような人は育っていない。結果、後悔や恨みに出てくる。三流以下と言うこと、当然私がに成る。

己の命を捨て、必死に後継者の為に、生きる生物は多い・・・親が力が無い劣っているからとも思えるが、仮に人間は力が有るなら、当然、後継者も親の思うように痒い処にも手が届く人材になっているはずだが、現実は???

勿論、劣っている、三流で、変わり者・異端児の私だから、この様になっていると思うが、普通の人達は、当然、思うような人生を謳歌していると思うし、己が劣り出すことも、受け入れ楽しんでいると思う。

今後、作業等も今以上に時間を必要とすると思う。しかし、全く出来ないというわけでも無いので幸せだと思える、己自身にならないと考えている。

今まで、色んな、人、特に障害等が有る人達と接してきた経験が、役に立つ・・・基本は、同じ目線が、大事だし、これが出来れば、受け入れて頂くことが出来る。

要は、己も何時か・・機能不全になり、五体不満足に成る・・・障害者という立場と同じと言うこと・・・急に成れば誰しも慌てるし・不幸と思ってしまう。しかし、社会の中には、この様な人が居るし、それに目を向けていれば、当然、己が同じ立場に成った場合等々も考えていると思う。

しかし、この様になりたくない、と思っている程度ならまだしも、神や仏に祈っているという場合はh・・・現実になってしまったら、凄い、悩みになると思う。

誰しも、成ることだし・・この様になって死に向かうのが、普通だと私は考えている。

よく「ピンピンころり」と言われるが・・・若い躍動感、活動が出来ていて、次の瞬間に死・・・大きな事故等で無ければ、有りえない事に成る。

ピンピンころりを目指すなら、事故以外に無いと言うこと、事故を願うことになる。

普通に生きると言うことは「生老病死」を体現していくことになる。

要は、生きた証とも言える。

こんな事も出来ない・・・手を貸して・・・死ねと言う言葉が返ってくる。私の後継者育成の成果になる。

時間は掛かっても、出来る間は、続けることになる。