2025年4月12日土曜日

ミャンマーの介護士・・・

 今日ケアプランでミャンマーの青年と知り合った。昔はビルマと言われ、日本では「ビルマの竪琴」が二回、映画化させその主演を親子二人が主演すると言う映画になる。意味深い映画だと思っている。そのビルマから来日され、介護士で頑張っておられるし、私の四男の年齢と同じ位い・・・入院中にもミャンマーからの研修生が一所懸命に頑張っている姿をブログに書いているが彼は日本語も堪能だし、レクレーションで出す問題、日本語、漢字・ひらがら・カタカナ等使い分けて白板に書いて居られる凄いことと思うし、興味が有ったので、色々語らいをした。仏教寺院が多く残されている曼荼羅を立体的に唯物化した物と思うし、ヒンデゥー教的、他所が強いが日本の仏法も神道との擦り合わせがあるように、その様な方向だと私は捉えているが、仏法思想があるので日本の諺の意味も、自国でも同じ様な使い方をされているとのことを言われ私は驚いている仏教心が残っている国と大きく価値観がつがうという事に成る。此からの国、青年層が厚い国・・・将来に希望が持てると話したら。若者がドンドン海外に流出している、その原因は、民主主義と自称しているが、権力を持つと、このポジションを絶対に離したくない、又それ以上の力を欲する。独裁者、結果として徴収制度が始まった。意識有る若者は世界に向っていると個々と・・・何度も書くているが、もし本音がお金本位主義なら、民主主義・社会主義等々、だ木の主義主張も意味を持たない、何の為に力を持ちたいのか???お金の為ならお金を得ることが何より大事になる。命より大事になる。権力が利を生む可能性も有るから、利権という・・・己の権力を見せつけてそれに服するか、嫌ならお金、此が世界の普通になる。本当に世界標準が良いのか???グローバル化が良いのか???考えて貰いたい!!!幸不幸はゆいぶ唯物的な事で決るのか???私は感謝の対義語が普通と言っているは普通でない事には、良い事と悪いことが有る。悪い事に感謝出来ない、普通で無いが、要は「生老病死」の現実の捉え方、四苦をどう感じているか、私は生きて居る証拠と捉え全てに感謝できる人間居なりたいと思っている。

今日のデイケアー

デイケアに早いが九時過ぎに到着・・・一日頑張ろうと考えている。他の入所者の到着までの、時間の有効利用で、パソコンの入力での左手のリハビリ・・・・何度も書くように小指と人差し指が思うように動かないと言うより固着気味になっている、此を改善するためには多くのキータッチのリハビリが必用だと考えています。劣った部分は、取り戻す簡単で無いが、一度身に付けたことは体が覚えているはず、少しの体の使い方の変化で対応できると思うし、若い内に多くの事を身に付けることが結果的に己を助けることに成ると言うことに繋がっていると、私はパソコンの入力時に感じている。目が見えにくいし、表示を色々変えてギリギリ見える程度、雰囲気で見ていると言う感じ、結果誤字の確認が出来にくい、此が出来るのもブラインドタッチを練習続け身に付けた為だと思う。これが無ければ、目が見えない状態でキーボードに記載されている文字を見ると言う事も出来ない、見えないキーを押せるわけも無い、パソコンが仕えないと成る。スマホは、目が悪い人間には意味を持たない事が解った、何を行おうとしても、質問等が出るが其れを読めない、結果、何処を押せば良いのかが解らないこんな怖い商品は無い、押す場所を間違えば大変な事に成る。五体不満足、特に視力に対しての対処商品の出現を期待している。健常者の頃は気づきもしなかったことが、今では重大な問題に成っている。人とは勝手な物だと思う、想像できる頭・脳を持っていても同じ人当然色々個性や特徴が有ることは知解していると思うが、己を普通と考え、それ以外を普通で無いと捉える特性が有る。面白い事に、普通とは、当然と言う意味、感謝の対義語になっている。普通でない・・若しかすると、感謝に成るし、幸福・幸せなのかも知れない。要は、普通で無いと言う事を悲観することは無い、再起に書いた様に幸福の証明名なのかも知れない・・・己に自信を持つという事は、普通で無いから自信が持てるという事、当然、誰しも普通より良いと言う判断価値観で捉えているが、部分も各々の捉え方で変る部分・・・

午前中の自主練終了・・・ストレッチ・筋力

増強の練習を行った・・持久力が無いので直ぐに息が切れるが、此も続けていれば体力も戻ってくると願っている。今後、リハビリと昼食がある。其れまでの時間を有意義に使いたい!!!

昼食を済ませ、昼寝・・・その後レクレーションを終え、少し自主連を行って今日も終り人なると思う・・・良い日に成ったと思う。帰る支度になる、この辺で終了!!!

今後の請求が怖い!!!

 今後、デイケアと透析のクリニックの請求が有る、20日以降の請求なので、一ヶ月と言う確りした機関で無いので、来月の請求で月の支出が解ってくると思う。現状でも入院していた方が安いと思われる金額、お金だけを考えれば入院していた方が得となる。しかし、その身は仕えない、利用できないと言う事に成る。生きて続けているだけで生きる意味が有るのか、又、費用が嵩むと思える入院の方が何故か安い???医療制度や補助の拡充が大きいからと思う、結果、患者側の負担が少ない、己の身を役に立てたいと思い、努力数なら、退院してリハビリ等の治療も継続、社会復帰に頑張ることになるが、この行為を行うと費用が大きく必要に成る・・・特に健常者の介護人が常時必用に成るので、己だけの為に、他の一人の時間を束縛し、稼ぐ事も出来ない状態に成る。「ひんひんころり」は理想だが、この様な終焉を迎える事も難しい、後継者が多く必用な意味は一人だと、二四時間の介護は無理・・・・何人必用かは、個々の能力でも変ると思うが、最低でも二人以上要ると私は考えている、。其れより多い事は更に良いことに成る。