人は、千差万別・・・しかし、今まで無限に思える数の人が生まれ、生きて来た・・・・当然、似ている人が居ても不思議でない。
要は、人として、どう生きればと考えた場合、先人や先輩方の、生き方から学べる部分が多々あると言う事に成る。
勿論、己らしい生き方を探すことに成る。
私は何度が書いているが、諸先輩方が居たから、今が有ると思っている、当然、恩を感じているし、感謝もしているので、何かの形で恩を返したいと考えている。
先人たちも、歴史等で、直接で無いが、己の指針に成る・・・当然、恩も感じているし、感謝していることに成る。
先ずは、人として生まれた事に感謝と私は考えている。
今日も、犬の餌に、蟻が群がっていた・・・その虫を見ていると、一所懸命に餌を巣に運ぶ為に頑張っている。それを放置する事が私には出来なかった。
我家の犬は、身に危険、痛みを感じないと思える、虫は直ぐに食べてしまう。
しかし、蟻が集っている餌は見向きもしない・・・・蟻が怖いと言う事・・・又、蟻は家の中にまで入ってくる、その為に、駆除と言う策を私は取ることに成った。
人間だから良かったと思える部分でも有るが・・・若し、人間が気付いていない、大きな力を持つ存在が居たら・・・私も蟻と同じ様に駆除の対象に成るかもしれないと思う・・・
人間として生きたいと思っているが、人間レベルで無いし、何度が書くように、鬼畜の命が私に有る。当然、人間として失格と見なされれば、大きな力の存在から、駆除の対象と成る可能性が有ると考えている。
何時も思う事が、人間なら、誰が為に生きるか????・・・之が永遠の一つのテーマと私は考えている。
魚類の鮭も子孫を残す為に、生きている。己だけと言う生き方は全てと言ってよいと思うが生物界には居ない生き物に成る。
人間も生物と私は考えているので、生物としての責任と義務は当然、果たす・・・・種として、人間としての責任と義務も、当然、それ以上に有ると私は考えている。
今、五男が、ラーメンとカップそばを食しているが・・・昨晩、嫁と大量にカップラーメン等々を買い込んでいたが、昨晩、五男の友達が押し寄せ・・・今朝には無くなっていた。
当然、何故と思う瞬間もある・・・私が考えていた目的と、少し違った使い方をされた・・・怒りは無い・・・・笑いながら仕方がないな~~~この様な生き方を私は望んでいる。
その為には、何が必要か、力が無い私の場合は、我慢が必要だし、その我慢が当然と思える状態に成らなければと考えている。
周りから、楽しいのか???と質問される事も有るし、中には目を見て楽しい様ですね~~と言われる事も有る。
個としての自由が無いと見えている様だが、私は自由人と己を思っている。
各々生きる環境は、違う・・与えられた環境の中で生きている・・・はたから見れば、自由が無い、人権無視と見えていても、己がどう捉えているかで変わる。
若し、与えられた環境の中で生きる素手が無ければ、死ぬだけと私は考えている。
要は、勝者の理論が有ると言う事、蟻も一所懸命に生きている、営みが有る。しかし、それを一瞬に殺す、私と言う存在が有る。
命の軽視でも有る。悪い事である・・しかし、それ以上に何かの理由が私には有ったと言う事にも成る。
今朝、除草剤を散布したが、植物を殺す作業に成る・・・良い事か悪い事かは、捉え方で変わるし、人間の理屈・それも屁理屈で、殺しているかも知れない。
一杯の命を奪う、作業を今日はしたと言う事・・・・命が大事と叫ぶ人間は多い・・しかし、私はそれに反したことに成る。当然、異端児に成る。
しかし、私は、申し訳ないと言う、気持ちは持ち続けたいと考えている。「御免なさい」と心で言ってから、殺の行為は行う様にしている。
嫁が、今、活動している除草活動に対して、私は、体調が悪いので、簡単な思いでは、体が動かない・・・それを見て、休めば~~~体が大事と言う・・・しかし、気合いを入れて、作業を開始している。
若い時と比べれば、半分以下の能力しか今はないと管変えている。しかし、仕える能力は使い切らないと、勿体ないと思いが私は強い・・・
与えられた命、動ける体、動ける間は何かを行う・・・・当然、利と負を作り出している・・・この部分は、誰かと言うより、大きな存在が判断していると私は思っている。
人の目と言うりょい、それ以上の力が有る存在が、判断していると思っている。
生きた人の目は誤魔化しが効く・・・・・心に残っている、先人や先輩方の視線を感じながら生きている。
之が、恩を感じて、恩に応える生き方と思うし、出来る事は、感謝していると言う意味と私は捉えている。
しかし、頂いた恩より、行動が伴っていない・・・この部分が、三流と言う事にも成る。
要は、私が生きた証は、負を残したと言う事にも成る。
普通に人なら、利と負とバランスが出来る人だと私は考えている。優秀な人は、負より利を残す人だと考えている。
要は、物事の捉え方、人様の捉え方に成る。