父の一周忌の法事を済ませることが出来た。感謝に成る。
儀式・・・・人を集める為に、日を決めるその日が約一年後の今日という事で、父一周忌と勝手に執り行ったことになる。
本来、供養は、何時でも出来る・・・思い立ったときにも出来る。
しかし、故人と関係性絵の有る、人達に、故人の法要を行っているか等々の心配をさせないためにも、後を守る後継者の立場が、確り行っているという姿を、故人の縁ある人達に見せる場が法事だと私は考えている。
先に書いた様に、供養・追善供養などは、毎日、何時でも出来るし、故人を偲ぶだけでも供養となる。
故人・先人を忘れていないという姿を、故人に関係あった人達に見せる場となる。
誰の為の行う、等々の考えも有ると思うが、私は全ての人の為だと思っている。
その結果、安心され・喜んで頂く人が居るなら、行っても損とは思わない。
親族が集まる場も最近は減りつつある。結果、私の孫達も、私の叔父や叔母を知らないという事にも成る。
私は、何度が書いているが、叔父・叔母を看取る責任が有る身だと考えている。この責任も私がこの様に居るから叶えられるが、もし、叔父達より先に旅立てば・・・私の息子達が名代として私の代りの責任を背負って欲しいと思っても居る。当然、その流れで、子が駄目なら、孫となる。
命が何時尽きるかは、解らない・・予想は出来ていても、厳密な日時は解らない・・・その為に、何気ない約束・責任・義務も、果たせない場合が出てくる。此が普通となれば、嘘は必然となる。
約束していても、死と言う現象で、破れる事に成る。
人の言動が信用できないと成らないためにも、名代を残せる事が人として最低限の責任だと私は考えている。
勿論、血の繋がりだけで無い・・・他人でも後継者として成れる人は多々居る。要は、創り・育てることが出来るかになる。
簡単に、書けば、血の繋がり等々が有っても、育て方次第では、俺!!関係無い・知らないと言う人間も出来る。
要は、教育・育て方になる。
法事・・・無事済ませることが出来。叔父・叔母達が喜んで帰路に就いて頂いた、感謝に成るし、父母にも感謝に成る。
又、若嫁達も、変化している・・・法事の回数も増えるに従い、慣れが出て来たのか???・・・1時間前に集まって、準備・・・・又、後片付け等々、行ってくれた。又、中心者等の役割分担、上手に行っているようだ・・・これから、下の息子らも、嫁も持つときが来る。
その時は宜しくお願いしたいと考えている。
何事も経験・慣れになる。