2018年1月30日火曜日

保険屋さん来訪・・・

商工会の保険屋さんが来訪・・・

通院見舞金・・・一律に成るが・・・手続きに来られた・・・

焼け石に水みたいな金額に成るが・・・金欠の私には有り難い・・・又感謝に成る。

不思議な事に・・・全盛期でバリバリ稼いでいた時は、色んな保険に加入していたが・・・殆ど使う事も無く・・・経済力に合わせて、保険見直しを嫁がした後に・・・何故か、病院との縁が増えたし、今回の事故・・・・

保険会社もプロである・・・保険が必要性が少ない年齢等では、儲かるから、安く設定が出来る・・・
逆に、高齢に成れば、病気や怪我も増えるし、その加療時間も増える傾向が有る。
この部分に成ると、保険会社もこの様な部分の保証を少なく、死亡と言う部分に趣旨をもって行く傾向が有る様だ。

保険会社も、営利目的の会社だし・・・仕方が無い部分と思うが・・・・本来保証が厚く必要な時に無くなる・・・変な時代だと思うし・・・・

母が加入して居暮れた、昔の保険をそのまま、加入を続けていれば、良かったと、今に成れば思う・・・
嫁も目先の支払い等々の、カタログスペックで判断してきた結果が、今に成っているが・・・之も仕方が無いと私は考えている。


昔から、心身損害保険は大事だと言って居たが・・・・・・この部分を最初に、打ち切っている。

人は間違いを起し、失敗もする・・・又人は背中に色々担いでいる場合も有る。その背中の人を守ろうと、逃げようとする事も有り得る・・・・

個人としては、良い人だし、正直な人でも・・・環境や、背負っているものの違いで変化する・・・之は個人が悪い・良いと言うレベルでない・・・

結局は、筋書き通りに物事が進む事は無いと言う事が、前提に成らざるおえない・・・・


しかし、自分が考える、筋書き通りに成る、之が自分の力等々と思い込み・・・この部分を考えなければ、最終的に苦労する事に成る。

人とは凄い可能性を持っているし、良い方向性に進むなら、一気に良い方向に進む様に見えるが・・・現実は、人は独りで無いと言う事を確り、認識が居ると言う事に成る。

その為に、昔は人の評価以上に、家の評価をしていた・・・人として子供も居る・青年も居る・壮年も居る・高齢者も居る・この一括り、家を最小単位で評価していた。

家の評価が良い、家が多々有れば、地域社会も円滑に成る。

勿論、単位が家・・・責任者はとなれば、家長になる・・・・この家長が有るまり、地域の話を決めれば、全てが適う・・・・100世帯位の地域だから、100人の家長が集まり決めれば、こと済む事も、最近は、個人に成りすぎて・・・数百人の意見を聞かないの前に進まない時代に成っている。

纏まる話も纏まらない・・・・

個人主義が良いと、現代は成っているので・・・この方向性にドンドン向う・・・・昔は、会社が社員個人の問題にも責任を感じて居たが・・・・現代は、この部分も無く成って来ている。

会社では、社員教育はするが・・・人としての教育はしていない事に成る。

営利目的の会社・・・当然、利や得を善と教える・・・不や損を悪と教える・・・・

この事は意味する事は、会社にとって、不や損と思われる社員やいら無いと言う事にもなる。

之を、人間社会に当てはめると、当然問題が出て来る。

授かった自分の子供まで、この価値観で考え出せば・・・怖い事に成るし、その様な環境で育った子供が、社会に巣立って行く流れに成る。

結果、不や損と思われる、立場に成る事を個人として一番嫌う、又は怖がる流れが出て来る。

之が現代に成る。

個人主義と言っていても、人目を気にし、嫌われる之を怖がり・・・中途半端で一生を暮らす・・最後はゴミみたいな扱いを受けて・・終わる・・・・

人は機械では無い、長け続ける時も有るし、劣り続ける時も有る・・・・その為に、小さな集団としての家が有ったが・・・この家と言う、単位や価値観が無く成って来ている。

私たちの歳位に成ると、終活の事を考える時期と言われるが・・・本来、家単位で物事を進めていれば、考える人用もないし、その生きた人生が、終活に繋がっている筈であるし、その姿・振舞いを構成者も見ている筈・・・・

結局は、現代は不や損と思われる部分は見せないで居る為に、その時期に成ると急に問題に成り出す。

社会人として出なく・・・基本は、人としてどう生きたかに成るし・・後継者にどう見せたかに成る・・・


悶絶が楽しい・・・・

今は、失敗を楽しむ・・・之に目覚めてしまったので・・・・この方向で楽しんでいる。

昔の自分の考えと、この部分が大きく違う・・・・昔は失敗を恐れ・・・之を表に出さない・・又、その誤魔化しの操作も、出来るだけ見せない・・・之が、良いと考えていたし、この方向性が正しいと考えていた。

しかし、よく考えると、自分の操作技量内に収まる、車つくりに成る・・・操作技量の鍛錬と言う趣旨より、結局は人目を気にしていた事に気付く・・・・

車の作り方も結果的に・・・成功走行の確立を100%に近づける・・・これに注視し出す・・・・この事は、自分の操作技量内に、納める手段に成るし・・・その操作技量も、私の場合駄目だしを多々頂くので正しいとも言えない・・・・・勿論、実車の世界で、怪我や死が直結している世界でもないRCの世界でと考えれば・・・・確り止める方向性が有れば、後は、自分の操作技量よりシャーシが強い方向性が、練習には良いと考える様に成った。

又、操作技量無いのシャーシで、それなりに走れる自身が付くと、何故か、現状の環境では面白さを感じなくなる。結局は、義務感や責任感等々で、私の場合ホームコースに行く方向になっていたし、他のコースへ伺い、遠征をする方向に成るし、その中で、楽しさを求めると言っても・・・答えは、走り、それも失敗をしない、自分が思う格好よい走りを見せる、この部分だけに成る。

この自分が格好良い走りと思って居ても、現実には、私の場合、この部分も駄目だしが多いし、RCドリフトで無いと迄言われる・・・

勿論、各自の感性の為に、何が好みかも本心では違うのが当り前・・・・大人の配慮で、之を言うか、言わないかの違いと、気付けば・・・・

結局遠征も、面白くなくなる。理由は簡単、人様に認めて貰おうとする思いが有るが、結果的に人の心、千差万別と言う事に気付けば、自分の目的の空しさが解る。

私の場合、他のRCジャンルからの参入者に成る・・・RCドリフトに挑戦して、最初に感じた事は、走行これが出来ず、悶絶をしていた・・・・この悶絶から早く、開放される之を試みていた事に成る。

しかし、一番シャーシに対して正面的に取り組んでいた時期は、この時期・・・・悶絶・悶絶・悶絶を繰り返して、操作の仕方を覚えた・・・ケツカキに移行時も同じ・・・・2駆も同じ・・・

この悶絶していた時が、創意工夫もするし、頭もフル回転で色々妄想もする。この時期が楽しかったと気付けば・・・・

現状の車で、悶絶できる方向性にシャーシを作れば、この部分を楽しめる事に成る。

この悶絶する時期は、人目等気に成らないし・・・シャーシ対、自分の、戦いと言う形に成っている。
人の言葉も気に成らないし、耳に入らない・・・

この小さな、方向性に成るが、自分 対 シャーシの関係性が密で、面白いと私は感じている。

悶絶して、失敗するから、悩むし、操作の方向性を探す事に成る・・・・・悶絶が楽しいと考えている為に、この悶絶が技量に伴い減れば、シャーシを悶絶する方向に向えば、悶絶を得る事が可能に成る。

人生も私の場合、思う様な人生を夢見たが・・・・結局は思う様に成らない・・波乱万丈な人生に成った・・・昔の私なら、恥じや、嫌だ・・・不幸と考えると思うが・・・・・今の私は、之が楽しい、面白いと考えている。

人目には不幸かも知れないが・・・当の本人は、楽しんでいるし、面白いと思っている事に成る。


人としてするべき事を、する、勿論力が無いので、七転八倒の行動に成るが・・・之を続けて、最終的には、限界を超えれば、日本国、セフティネットが有る・・・・

好き勝手に、人しての責任も果たさず、過した結果のセフティネットとは大きく意味が違うと私は考えている。

この部分が日本国の凄い所、背負いきれないものを背負う・・之が可能な国と言う事・・・之を息子達にも教えているが・・・何故か分以下の物しか背負わないし、背負っているものまで降ろそうとしている。

男気を感じないし・・・逆に女々しさを感じる、何故かは背負っている自分を、格好よく見せようとする、女の化粧の行為と同じ・・・・之が人のオーラーとして軽く見える事に繋がっている。

人としての深さや重さをオーラーで出して貰いたいと親として願っているが・・・逆に、心の汚さが、オーラーから出ている。

結局は、人との対話での論争を避けて来たからになる・・・人から本音を言わせる、之も人の能力に成る。之が無ければ、裸の王様の立場も望んでいる事に成る。この様な人が、人としての厚みが有ると、感じるか、私は感じない。

現象は、結果で無い・・・・人としての結果は人の心・精神・知識がどう変化したかが結果に成る。


男気の世界と、言われるRCドリフトの世界・・・私の目からどう見ているか・・・之が大事・・・・・この思いが結果として、行動に繋がる。