2022年9月21日水曜日

優先順位!!!・・・・差別?????

 私べ己の事を、差別主義者と自称している。何故か???・・家族等から差別主義者と言われるからになる。

私は厳然と、己の価値観の中に優先順位が有る。この優先順位を持つこと自体が差別と言われるなら、差別主義者と言われても仕方が無いと考えている。

よく、究極の判断という、問いが有る。線路上に、大金持ちと・・・多くの一般庶民が複線の左右に居るという前提で・・・・汽車は走り続ける前提で、ポイントを切り替えて、どちら側を通すか・・・要は殺すかという問いになる。

人と言う前提だから、悩む部分になる・・・もし、命と言う前提で、虫と人が左右に居る、どちら側に汽車を通すか・・・当然、虫側の線路と言うことになる。

勿論、平等主義者はこの部分でも悩むと思う。

私は、差別主義者なので、私の優先順位で虫を見殺しにする方を選ぶし、躊躇もしないと思う。

しかし、耳さわりの良い、言葉なら、同じ、命・・・命は大事だという前提が、まかり通る世界が今と言うこと・・・・

我が子にも、差別主義者と言われるので、私の考えを話し続けている。

要は、生命、当然、人も各違う・・・要は、違いがある。同じと言うことで無い、その為に、多々の経験・多くの知識が必要だし、多様な価値観も学ぶ必要が有るというのが、私の持論で有る。

何度が書くが、認識・簡単に例えると、目が有るから見える・・・しかし、見えているが、感じないと言う場合が多い・・・様は違いが解らないから同じに見えると言うこと

解らないと言うより、知らない・経験が無い・・・勝手な思い込みが有ると言うことになる。

私は、経験・知識が知恵に成り・・最終的に己の目に成ると考えている。

要は、見えているから予想が出来るし、想像が出来ると言うこと・・・

しかし、人を盲目にする・・・言葉が有る。普通や一般と言う言葉・・・

先に書いたように、人の数、違いがある。これが一般である。しかし一般とは固定化したこれが普通だという方向に持って行く、論法が多い・・・

仮に、平等だからと、本当に、人は平等なのか???・・・厳然と違いが有るのが人の世界だし、生命と言う広さに成れば、違いは多岐にわたる。

私は何度も書くように、変わり者、異端児・普通で無いと言うことに成る。普通で無い事に対して、私は当然と思っているし、それが差別とは思わない・・・理由は、人の括りの中で生きられているからに成る。

当然、区別も蔑視も悪口・痛いことも多々される。私は仕方が無いと思うし、人は違うから当然と考えているし、良い方向に考えれば、俺らしい振舞をしていると言うことに成るし、個性が豊かだと周りが評価していると考えている。

要は、負に感じていないと言う事・・・・

これも何度も書くが、金太郎飴の、一粒には成りたくないと言う思いで、生きていると言うこと・・・・・無限に近い数の金太郎飴が一粒無くなっても気付く人も居ないと思う。この流れが私は生きた意味が有るのか???と疑問がでる。

私は、今まで多くの人の悩み等も聞いてきた。殆どが、己が思っている普通と違う、これを悩んでいる。

勿論、己が思っている普通が正しいという前提に成る。

証拠に、誰しも、一般的にも、これが普通だというからになる。

もし、相手が居る悩みなら、相手の価値観、普通が有る。その普通が違うからの悩みになる。

能力や力が有れば、当然、価値観の違い等の許容力が高いはず・・・しかし、現実は能力・力があれば、己の価値観が正しいという思いが強い、己の許容力を無くす方向に向かっていると私は考えている。

結果、先に書いた様に世間が・一般・世の中が己の普通を認めているという論法になるし、その後ろ盾を使い、ルール化したり、法律化してしまう。今、他国に攻め入っている、国家の独裁者の振るまいと同じと言うことになる。

要は、この様な流れがあるから、虐め等の問題も無くならないと私は考えているし、その策として、ルール化が進むことになる。

人は、間違いを起こすし、失敗も起こす・・当然、各自・普通が違うし、価値観も違う・・・この千差万別な人達に全て同じ、と言う教育・・無理が有るし、そのはけ口が虐め、又、陰湿な見えない虐めに繋がる。

先に書いたが、人の命の優先順位となると、判断が難しい・・・しかし、命、虫も爬虫類・色んな生命と広げると・・・何故か、簡単に優先順位を決めれる。

この判断が出来る事が、知恵だし、人間と私は考えている。

線路のポイントを変えれるのも人間だし、その判断が出来るのも人間と言うことになる。

生きると言うことは、判断が難しいことが多々派生する・・・その都度、平等だからとなれば、判断できないし、結論も出ない。

要は、生きている人の己の価値観で決めていることになる。

これも何度も書くように、本来、虐められ、村八分扱いを受け続けていても仕方が無いと思う、己勝手な価値観で、生き続けている。しかし、現実は、村内のお手伝い等々を依頼される立場になっている。

勿論、昔は、一部の人からの依頼等で、一般の人は、変わり者としての目で見ておられたが・・・何十年も続けていると、次第に見方も変わってくると私は肌で感じている。

反社会的集団と、成ってしまった、学友からも、何故、お前が同窓会等に誘われるか、解らない・・・俺たちも、若い頃は、同窓生からチヤホヤされたが、お前は昔から嫌われ者・・・

嫌われ者のレベルの差は、私が大きいはずと言う理屈になる。

要は、同じ同窓生として見てくれているだけでも感謝と言うことになる。

この感謝の思いが有るから・・同窓生には恩を返したいと思っている。

勿論、参加すれば、からかわれるし、天下の嫌われ者の登場等言われるが・・・それも、褒め言葉と私は捉えている。

発想の基本が違うと言うこと・・・平等が基本になれば、人と同じこれを目指すことになる。

私は、人の数、違いが有るし、個性が違うと考えている。結果、違うことが当然だし、もし、人と違う事で目立つなら、虐められても当然と考えている。

それが、嫌なら、己の個性を消し、一般が言う普通というレベルに染まるしか無い。

もし、努力しても、厳然と違いが有る・・結果、虐めは有り続ける。

些細な違いで、その違いを言う・・結果、指摘となり・・文句となり、虐められたと成る。それでそれを続ければ、善意で文句以上の対処をされる可能性も有ると言うこと・・・

これも何度も書くが、出釘は打たれる・・・打たれ続けて、板から飛び出せ!!!・・・その板のレベルでは、対処できな新たなレベルへの脱皮だと私は考えている。

己の今の価値観との勝負、拡大・・・これを考え生きている。

新たな経験が、新たな価値観の吸収の出発点になる。