2021年1月10日日曜日

隣町で、感染症・・・

 隣町で感染症が、出た・・・珍しい事では無いが・・・

長男の娘が通う、保育園で、感染者が発見されたとの事・・・・

乳幼児で・・・先月から、体調が悪く・・・保育園には来園されていないとの事だが・・・

昨日、家族と思われる、小学校生と共にコロナの陽性と成られたととの事・・・・

保育園や学校は、広い範囲から人が集まる。

当然、情報法の為に、家族がどの様な人なのかも解らない。

今後、保母師等に、陽性者が出れば、当然、孫娘もと成る。

子供は無症状が多いと言われる・・・・感染を広げる可能性が高いと言う事・・・

五男に、嫁が言っているが・・・・無症状と決め付け、町等に出かけ、ウロウロする事を辞める様に言っているが・・・・当然、耳を貸さない状態・・・・

無症状でも、人様に感染させる危険性が有る。

特に私は、持病も有り、重獨化する可能性が高い。それを知っていても、周りのが誘うからと出かけて行っている。

嫁に、お金を渡すから出ると私は言うが・・・・渡し続けている。

お金が無ければ、動けない・・・・動かなければ、感染する可能性が低く成る。

又、嫌われ者の私の場合の、距離感と・・・五男等の友達との距離感は大きく違う・・・・

昔、書いているが、私の影の範囲には人が入って来るのを、私は好みに思わない・・・・基本、2m程の距離を保っていた方が、私は好みに成る。

この様な、タイプなので、電車も嫌いだし、町等に行くのも嫌い・・・人が多く集まる祭り等は当然、大嫌いと言う事に成る。

信頼したいと思うが、信頼で出来るかは調べなければ解らない・・解らない人には近づきたく無いと言うのが、私に個性に成る。

勿論、素性が様子で解る人なら、信頼もすぐできる・・・この様な人は浮浪者様な様相の人に成る。己には負が多々有ると、それを見せている人は安心出来る。

一番わかり難いと言う、タイプが最近増え続けているので、信用できないと言う環境に私の場合、進んでいる事に成る。

要は、人を見る目が、私には無いと言う事・・・・様相を見て、直ぐに見抜く目を持っていない、三流の人間と言う事に成る。

人混みから離れた場所を好む人間と言う事に成る。

しかし、長男家族が心配である。

しかし、何時も思うのだが、同じ環境に居て、うつる人とそうだ無い人と居る・・・・

各自の免疫能力の差も有ると思うし・・・ウィルスの数も関係するのかも知れない。

数個のウイルスでも感染してしまう人も居れば・・・・その程度なら己の免疫作用で除去できる、又は抗体を作れる人も居ると思う。

病は気からとも言われる・・・・ガンも治ると信じたら治ったと言う事例も有る。

己の体が創り出した、変異体の細胞・・・ガンに成る・・・当然、己で治せない理由もない・・・人様の話では、常時、誰でもガンが発生している、小さな一つ程度の細胞のガン、しかし、それを排除する作用が働くために、消えているとの事・・・この排除する機能が弱まった場合、一気に増えると聞いたことが有る。

陽性に成っても、症状が出ない人も居る、逆に一気に重獨化する人も居る。

車と同じで、殆どの人は、事故を起こさない・・・しかし、事故は発生している、だからと車が悪いとは成らない・・・要は、事故を起こしたドライバーの責任と誰しもが思っている。之は差別とは、言われない。

私は、違うかもしれないが、同じ事だと、思っている。

誰しも陽性者に成りたくない・・・しかし、成る可能性が有る。要は、己の責任と思うが・・・今回は、ウィルスが悪い、国が悪いと成っている。

要は、責任が他に有るなら、当然、用心をしない人が増えて来る。

今回の感染症は、大きな話題に成った為に・・・個々の考えが言えなくなっている。

病気が怖いより、今の生活を守る方が大事と言う人も、当然居ると思う。

本当に怖い、全てを捨てても、病から逃れたいと思うなら、それも可能の筈である。

人との関りを断てば済む・・・しかし、それが出来ない人が現実には多いと言う事にも成る。しかし、何故かこの部分は表に出ない。

何故出来ないのか、先に書いた、今の生活を守る為には人との関りを断つ事が出来ない人が多いと言う事・・・貧乏人の私は、この中に入る。

貯えが多々あり、数年は山に籠れると言う、お金も持っていれば、当然、人の関りより、病が怖いなら、山に籠れば病との縁も切れる。

しかし、社会との縁を切ろうと考える人は少ない様だ・・・・

要は、何を選ぶかは己の責任でに成る・・・・今の社会との縁を切れないと決めたのも己だし、それで病に成っても、己の責任と言う事に成る。

私は、同じスタンスで居る・・・人との距離感も平常時と同じ・・・その都度、距離感を変える事が、差別とも思える。

要は、この様な状態に成れば、人を信頼するなと言う、方向に進む・・・人は怖いと言う方向に成る。





何が残せるか???

 何が残せるか????

生物としての立場なら、子孫と言う事に成る・・・・広げれば、後継者と言う事に成る・・・

当然、生きる目的と言う事・・・・

何時かは死ぬ、己に投資を続けても、最後は灰になる身と言う事は解っている。

株等の投資も同じだと思う・・・・何処に投資するのか???当然、将来性を優先すると思う。将来、明日、廃に成る企業に投資等を行う等、有りえないと成ると思う。

しかし、千年続く企業は、数社しかない・・・殆どが100年未満で灰と成っている。

当然、投資は企業の為に行っている行為が大事だが、目的が金儲けに成れば・・・ハイになる前、株が高い時に、逃げる・・・之が金儲けの手段と成るし、正しいと成る。

何の為の投資なのかで、意味が変わる・・・企業の為なら、信用しキツイ時ほど投資をする之が求められるが・・・現実は逃げる方向に成り、株価も一気に下がる・・・この現象を見ていると、下がった時に買い・少し持ち直した時に売る・・・之を時間単位で行えば、簡単に儲かると言う図式も出て来る。

企業の情報・・今後悪くなると解るなら儲かると言う事に成る。

今は、グローバル化に向っている、国間の問題でも株価が大きく変動する。

仮に、日本国に敵対した国のリーダーが、ミサイルを撃ち込むと言えば、当然、日本の株価は下がる。若し、国のリーダーが株で儲けようと思うなら、何でも出来ると言う事・・・・

考え様では、株価まで、影響力を持つ、国のリーダーの発言次第で大きく変わると言う事に成る。

この様な、社会構造も、壊れる可能性を孕んでいる。投機と言う目的のお金の動きが増えれば、当然、実態と大きく違う方向にも成る。

夢物語の世界で、生きている可能性が出て来ると言う事・・・・


要は、経済は、絵に描いた餅と私は考えている。

餅を得たいと思っていても、所詮、絵に描いた餅・・・・

勿論、三流の私が、投機目的に、するだけのお金も無いが・・・・

私は、生物としての生きる目的感だけは、忘れたく無いと、思っている。

三流でも、この程度なら出来ると信じている。

又、人間としての欲かも知れないが・・・私と言う存在が居たと言う証も、出来れば残したいと考えている。

要は、逝った後も、思い出して頂きたい。


老兵は去るだけと言う、言葉が有るが・・・私が好きな言葉に成る。

私を求めている場に移ると言う事・・・別次元かも知れないが・・・好きな言葉に成る。

その為に、今の生きている場をどうするかが、私の与えられた使命だとも考えている。

居た証を残したいと言う、思いで、物事に取り組んできた。

生きると言う事は、淡々と之を続ける事だと考えている。

当然、我身も劣り出す、機能不全に向かう、しかし、その状態で何が出来るか????・・・之を考え続けられる事が生きていると言う事だと私は考えている。

後は、勇気と行動に成る。

生きている間は、一杯、考え、悩んだ方が得だとも考えている。

死ねば、考える事も無くなる・・・脳停止状態で生きているなら、生きたと言う証も少ないと思う。つまらない人生と成るし、その鬱憤は当然、周りと言う方向に向かう・・・・





良い天気に・・・・

 寒波が過ぎたのか????・・・・良い天気に今は成っている。

滅多に雪が積もらなに地域に住む、私達は少しの積雪で・・・一気に交通がマヒする。

これも、地域の違いと思うし、各地域、環境が違うのが普通と言う事にも成る。

地域差が有る事が、当然だと私は考えているが・・・之さえも地域格差と言って、違いを求めないと言う風潮が有る。

しかし、格差とは・・この意味は、値打ち等の位等々の差と言う事・・・要は、違いは有るが、それで、各の違いに繋がってはいけないと言う意味だが・・・・人々の捉え方と言う事・・現実の違いは仕方が無い・・・しかし、人々の心に人格等の違いを地域と言う部分で行わない様にすると言う事・・・

之を、我子に説明しても当然?????なる。見える現実が全て同じと言う事が差が無いと思っている。

要は、命あるもの全て、私と同じ、命と捉える事が出来る、教育が必要だが、現実は、己さえ成長し・良く成れば、良いと言う教育が進んでいる。

これが有るから、現実の見える部分の差を埋める事が、格差をなくすと言う、方向に進むことに成る。

しかし、走る人も居る・・歩く人も居る・・・当然、足が悪い人も居る、動けない人も居るのが現実である。

走れる人は、走れる事が普通と思っているので、走れない人が居る事さえ気付いていない、共に走っている者と競っている状態で、後ろを見る余裕も無いと言うのが現実に成る。

私は、ブログ上で、我家も普通を書いている・・問題とは思わない、普通の出来事・・・勿論、私はそれで、難儀するし、悩みも増えるが・・・この部分は私自身の力不足に成ると考えている。

現実の中で、生きる立場、確りと現実と向かい合わなければ成らないと言うより、之が普通と言う事・・・・

又、分相応・・・私は、私のレベルが有るので、私の周りには同じレベルの人が多く居る事に成る。己の居る場所と成る。

先を競い合っているレベルの人は当然、同じレベルの人が回りに多く居る環境が、己の居る場所と成る。

違う場所には手が届かない・・・・届く場所だけは徹して守りたいと私は考えている。

私の居る場???・・・当然、分相応なので、己の足でギリギリ歩ける人達しか居ないと言う場所と言う事・・・・当然、歩け成る人も出て来る世界に私は生きていると言う事に成る。

その為に、歩け無く成る人も普通だと思うし、思いは有っても足が出ない人も普通に居る世界と思っている。己の生きる場所が、決まっているなら、この場所を守りたいと考えるのは当然の思いだと私は考えている。

しかし、若し、この様に人間の違いも認めない・・・平等であると、ある基準を決めてしまえば・・・・その基準、以下の人間は、人として認められるか???之が格差と言う事に成る。

マスコミ等で、耳に入る部分は、この基準を創りたかっていると言う、思いしか聞こえない。

又、声も出せない、情他に成っている人が、現実社会には私の住むレベルでは多々居るように感じる。

私には、人様に出来るだけ迷惑をかけないで、黙って死を待っているように感じる。

声に出せる内は、余裕が未だある。

しかし、余裕が有るから、対面・周りに気を使った発言に向かう、真実を言わないと言う事・・・・

真実・要は普通の真実は、己から言わない人が多い・・・その為に、聞く耳を鍛えるしかない・・感覚と言う部分に成る。

今、長く声を聴いていない、孫と電話で話を嫁がしている。

長男の最初の妻子と間に出来た子に成る・・・離婚後も、小学校4年生までは我家で過ごしていた時間が多い、孫達に成る。

他の孫に比べ、爺・婆は多くの時間を共に暮らした孫から電話が・・・・

爺バカだと思うが・・・・嫁に、直ぐに、お金を降ろしてこい等々、無意識に口から出ている私は居る。

今日は、バイトだから、後日と成ったが・・・声を聴かれただけで、涙が出る思いである。

爺に成って、多くに人が背中に乗っている・・・しかし、人数は多いが、背には確りそれをカバーする人たちも増えて来た。

要は、現実の手足と成って、行動する人達も背中で育ったと言う事に成る。

現実の責任は軽くなるが・・・・しかし、人の数は増えているので、相対的に背に感じる重さは、同じの様だ・・・当然、己が背負える限界が有る。このギリギリを今もしていると言う事・・・・

これも、逝った母が言っていたが・・・背負った重さが有るから、生きている・・・降ろそうと思った時は死ねと言っていたが・・・・その通りである。

孫との連絡が、結果的に私に、勇気を与えているし、今以上に前へと言う思いも出て来る。

背負うから、出て来る部分が有ると思う・・・・

私の孫の中で、私が現役で頑張っていた時代を知っている、孫が居ると言うだけで、幸せだと思っている。

苦労は、生きる財産だと思う・・・・一杯の思い出として頭に残っている。

キツク無かった事は、直ぐに頭から消去される、之が私の頭の様だ・・・・

良い思い出が無いと言う、悲しいと思えるかもしれないが、キツイ・苦労した事が悪いとは私は考えていない・・・バタバタしたし、必死に成れたし、楽しいとも思えるし、感謝とも思える。

今日は、孫からの電話、当然、感謝に成る。

緊急事態宣言・・・・・

 感染症に対して脆弱な社会構造に成っている事を、又証明した形に成った。

優秀な消費者として、育てられ・・・多々の消費が出来る事が幸せと教育を受けた人達に、今回の感染症は、大きな教訓を残すと私は考えている。

田舎に住む、私の場合・・・知らない人等が、村内に居る事を警戒する・・よそ者に対し簡単に受け入れないと言う、習慣が有る。

外から、何を持ち込むか解らない・・・この解らない部分を警戒しる事に成る。

閉鎖的な村社会と言われる部分にも成るが・・・戦前の村社会は一般的だった・・・勿論、この流れが長い間、続いてきた。

理由は、去年の二月に書いていると思うが・・・・感染症・病気の村への流入が、怖かった為だと私は考えている。

村の長は・・我村を守る事が大事だし、守り抜く事が、長の誉と成る・・・

簡単に書けば、我村からは感染者を出さない、之が誉と言う事に成る。

要は、生き抜く、生き残る・・・この基本部分を重視していた価値観と言う事・・・

しかし、優秀な消費者に取って・・この価値観は足枷に成る。

人の往来が多いほど、物も動く・・・・当然、村に多くの人が外から流入して来る事が良い事と成って行く・・・・これが、現代は、他所の人が、広がり、世界と言う単位に成っている。

昔に造られた、国道・・線路等々は・・・力が無い村を通っている・・・理由は、よそ者を警戒する、之を難しくする、幹線道路等は要らない・・当然、我村に、出来るだけ離れた場所を通す・・結果、昔は人も済めないと言われた土地に、今は多くの人が住んで居る状態に成っている。

何故、その土地に住むのか、優秀な消費者には都合が良いと言う事にも成る。

この様な、昔から続く・・村の因習とも言うが・・・現代は差別に繋がる等々で、なくなる方向に加速していた。

守る単位が、狭まり、今は、己に成ってしまった。

結果、守る事より、勝つ事・・何に、当然、その人が持っている価値観で変わるが、多く消費できる事が、勝つと言う、価値観が、爆発的に広がってしまったのが、現代と言う事に成る。

ボロボロの状態で、徹して守り抜くと言う、姿を馬鹿・損すると言う、考えまで出て来ている。

守る側が、己の恰好等、気にする暇もないのが現実だが・・・・・形振り構わず頑張る事が守ると言う事に成ると私は考えている。

昔から、書き続けている、優秀な消費者に成る事が幸せなのか????・・・・この部分を考える、現象が、近年続いている・・・地球が人間に対して、指摘している様にも感じる。

人間は、感染症との付き合い方を意識したから、地球上、全てに広がった、一つの要因だと私は考えている。

多々の感染症を乗り越えた、人間が生き残って居るとも考えている。当然、多くの人も亡くなったと成る。

要は共存できた人が、生き残ったと言う事にも成る。

地球は、大きなフルイに今、人間をかけている事にも成る・・・・フルイから落ちるか、残るかと言う状態だと思う。

当然、生活習慣・価値観等で、変わる部分にも成る。

人の流入が少ない、田舎の村・・・・村は安全だが、問題は、己が外に行って、持ち込む可能性・・・・この部分が、昔と比べると、格段に多くなっているのが現代・・・

当然、生きる為には、村の外に出る必要が有る・・・之は否定できない・・・しかし、我欲の為にと成れば、疑問が出る。

昔は、町や都会・・・怖い処と言う認識が有った、その為に、気を引き締め、行く場だった・・・この思いが強いと、全く楽しいとは思えない・・・・

この部分も、現代は変っている。

以前も書いているが、他所に行くと、緊張する・・・一番、落ち着ける場は、村と成るし、我家と成る。

現代は、我が地域より、落ち着ける場が他にある人も増えている。

結局は、何処の何方か解らない人達が多々居る、場所が落ち着けると言う、価値観が増えていると言う事・・・

当然、感染症には脆弱な価値観と言う事に成る。

結局、考えていない価値観、防疫に対しても人頼りと言う事に成る。行政が国がと向かう。

昔は、家の中でも、居る場所が違う・・・食べる時も、各々に膳と言う形を取って居た。

一緒のテーブルで食べる等々・・・現代の習慣に成る。

特に、力がある人は、一人飯が一般的・・・・当然、人を側に近づけさせない、この様な立場が、力が有る人と言う事に成る。

要は、感染症等への警戒の為に成る。

今、商売人、当然、人の動きが無くなれば、商売が行われない・・・多々の人が動く、場が一等地と言う事にも成る・・しかし、感染症に対しては一番、危険性が高い場所と言う事にも成る。この部分を解って、その場を選んだなら、当然、数年分の貯えを作るはず。

儲かる場と言う事、逆に危険性が有ると言う事・・・

田舎は、仕事がしたくでも、人が居ないので、仕事が少ない・・・たまに入る、仕事の依頼で、収入を得る・・・結果、待ち時間が殆どに成り、効率が悪い場所とも言われる。

逝った、理髪師の叔父が言っていたが・・・朝あら準備をして、頑張ろうと気合を入れても、客が来なければ、収入は無い・・・之が、客商売と言っていた。しあし、高齢の人が、村内に床屋が無くなれば、我々は、町の床屋等には行けないと、言う、お客さんが居たから、死ぬ間際まで、店を開けられていた。一人の客の為に、店を開け続けると言う事にも成る。店が無くなれば、床屋に行けない????・・・当然、遠くに有る床屋にタクシー等を使っていくと言う方向に成る。序に、町で買い物と言う流れも出来る。要は、優秀な消費者が一人増えたと言う事にも成る。

村内で、全てが完結できた時代で無くなった・・・結果、他所に行く事が、求められる・・・結果、車が売れる・・・運転できない人の為と、行政がサービスと言う形でお金を使う・・・・・

多々のお金が動く世界に成ってしまった。

お金を多く使う、回す事が、本当に幸せに繋がるのか????・・・経済は活性化されるが、それが幸せには繋がらないと私は考えている。

又、先に書いた・・閉鎖的、価値観、悪いのか????・・・

今回の感染症の怖さは・・・病より・・社会の対応が心配と之も去年の最初に書いている。

先のブログにも書いている通り、平等と簡単に言うが・・・己と他人、同じと覆えるか???思えない人が多いなら、当然、差別は有り続ける。

一般的で無い、私は、異端児扱いを受ける、当然、社会からに成る、その社会は、平等と言っている。しかし、私は疎外感を感じている。

要は、社会が言う普通で無い人に、私は成っている。感染症に成れば、当然、普通で無いと成る。社会が言う、普通で無い人等、本来、居ないと私は考えている。

しかし、普通が存在するので、誰しもが普通を装っている。勿論、普通で無い部分を隠して・・・・今回の感染症も、社会に知れたら普通で無いと成る。その為に、隠す事が普通と言う方向に成る。

不思議である。普通を装うためには、人様に迷惑を掛ける可能性が有る事さえ、隠さなければ成らないと言う事・・・之が、有れば、当然、感染症は広がり続ける。

若し、感染症も仕方が無いと考えているなら、私は感染したと堂々と言えると思う。

言えない社会が有るなら、PCR検査等も、自ら進んで行おうと言う人も限定される。

若し、感染の有無を社会に公言すると成れば、尚更、検査を受ける人も減ると思う、平等と騒いでいる社会の中で・・・

現代は、人との距離感、現実部分は非常に近い、密と言ってよい・・・しかし、心は離れている。対話を恐れる為に・・・人との距離感を感じ、体だけは近づいてその空虚部分を埋めている。

東京の人との距離感の短さに、行く都度、私は驚いている。

勿論、田舎に有る、ファミレスの距離感も近いと思うので、人の少ない時間なら良いが、多い時間帯なら、無意識に拒絶している。

何度も書く事だが、私は、人様を信頼したいと考えている・・・その為に人を確り観察する事が必要に成る。

勿論、家族や親族は違う・・・信用するが、信頼は別問題と考えている。

信用とは、責任を己が担う覚悟が有るか、無いかと考えている。

しかし、現代は、簡単に信用と言う言葉を使う・・・信用したなら、騙される覚悟が有ると言う事・・・私は覚悟が無いので、信頼までに止めている。

しかし、人様の話を聞くと、テレビの報道を信用して等々と、誰とも解らない人を簡単に信用している。

信用するから、疑問が湧かない・・・信頼に値するかと、吟味等を行わない・・・

扇動や誘導に弱い、価値観が増えていると言う事にも成る。

病は全て己の責任が重いと私は、考えている。

しかし、昨今は周りに責任を病までも押し付ける方向に向かっている。

之を肌で感じる人は、今回の感染症の怖さは、社会の人々と言う事にも成る。