三時前、嫁が来院・・・・今日は、家にお客さんが多くで大変だったと言っていた。私から見れば羨ましい・・・後輩のクマが来訪・・・車を修理に出すために道具等の倉庫に一時預かってくれと、当然、暫く居る事に成る。それを前後する様に、長男と義弟が来訪・・・カラオケに向ったが昼からの開店・・・・時間つぶしで来たと言う事・・・その後、三男とその子、三人の孫が来訪・・・孫達と遊んで時間が経つのが早かったと言っていた。
全てが羨ましいが・・・・有り難いとも思える・・・家に人が来訪してくる家の斑状の一つのバロメーターになる。
家長が倒れ、家の糧が途絶えている状態の家に行く、勇気が必要だし、それ以上に心配という思いやりが有るから、来訪できる。
私は父の商売の倒産で人の来訪者の変化に驚いてる。些細な事でも多くの人が来訪していたが、倒産という噂と共に、来訪者は減る、逆に債権者や反社会的集団の来訪が増える・・・困ったとき、ピンチの時の人様の手だと思うが・・・ピンチの人に石を投げるような人さえ居る。
嫁の話だと、モット沢山の縁ある人が来訪しても良いと私は考えている。現代は助けたい、手を貸したいが掴まなかったと言い訳をする。掴む力が有れば掴むし、己で行動もする、此が出来ない人なら、此方から掴む必要が有る。背を貸すと、己で背負うとは意味が違う・・・・お金儲けは積極的に行動出来るのし、我先と先を急ぐのに???人様の為と積極的に先を急ぐような行動が何故出来ないのか???
誰しも自己保身はある。生物としての本能・・・保る今の環境をと言う意味、しかし、人は我欲で今より良いと言う方向も自己保身の一つだと考えている。我欲さえ自己保身・・・・少し違う感じがする。
生物は、今の己を保ちたいと思っていても「生老病死」から逃れる事が出来ない事を知っている。その為に、本能的に子孫を命懸けで残そうとする。人間なら、頭でも理解しいる「生老病死」は知っているし、本能でも知っているはず・・・しかし、個としての我欲を叶えることが幸せと思い込んでいる。
結果「生老病死」の宿命からも逃げているし、正面から受け止めようとしていない・・・・要は逃げ・避け・通り過ぎるのを待つという受け身の生きかた。「生老病死」は確り受け止める度量が必要と言うこと。今の私には無いので勉強中になる。
私の生命次元で捉える、仏教哲学に有る、永遠の生命論・・・今世の今は第何章の人生なのか????・・少しでもレベルUPして、新たな章を奏でたい・・・その為にも、今世での「生老病死」をまっ書面から受け止めて旅立ちたい!!!!!
当然、己有ることは他人様にも有る・・・・孤独に悲惨と嘆くことは無い・・誰しも有ることだから、手を変えるときはお節介と言われようが与え続ける事に成る。