報道で、少女の監禁等々が言われている。
我家にも、四男の彼女・・・・17歳に成ったばかりの子が居る・・・
四男の部屋に、居る為に・・・殆ど顔を合わす事は無いが・・・
現実に居る・・・・勿論、結婚を前提として、居るし、お腹には赤ちゃんが居るのが・・・・婚姻の届けはしていないので、他人と言えば他人に成る。
人様のお子さんを扱っている事に成るし、食わせる・扶養するのは、私と言う事に成る。
このパターンを私は永遠に続けているように感じる。
直ぐに背負いこむ・・・己がきつく成る方向には、直ぐに仕方が無いと思う・・・逆に他人がこの方向に成ると、何故と疑問を持ってしまう。
よく言われるが、他人様の心配は、疲れるし、答えが出ないので、悩みに成る・・・
しかし、己の事は、行動すれば、如何にかなる・・・この方向が私は楽に感じる・・・要は、弱いから逃げる方向かも知れない・・・
悩むと言う、気苦労より、体の苦労の方が、私には楽に感じる・・・・タイプと言う事に成る。
昨晩の、交通安全の推進員、会長からの相談の、結果として、悩むより、私がその処理を行った方が、早いし、気が楽に感じる。
要は、問題が発生した、その為に、出来ない・・・出来るようにアドバイス・試案をしても、事は、解決しない・・・昔から言われる、器用貧乏と言う、事にも成る。
出来る部分だから、直ぐにしてしまう。
会長さんも相談に何故、私を選んだのか???当然、出来ると言う思いが有ったからだと思う。
その期待に応える、単純な事だし、話、対話も直ぐに結果が出る・・・
仮に、相談をしたいと誰を選ぶか????・・・色々、理屈を言って、行動しない人か???・・・奇麗ごと等々を並べても時間の無駄に私は思うし、それが有るから、相談しない・・・
出来ると、結果が得れると思う人へ、私は相談する。
要は、話す事柄も、相手で変わると言う事に成る・・・之も、差別主義者と言われる私に成る。
相手を選ぶし、相手で対応を変える・・・
この様な発想・・・餅屋は餅・・と言われる・・・この部分も現代では差別と言う事を言う人も増えている。
結果を求めない、問題解決を求めない、相談は無い・・・若し、この様な思いなら、愚痴の吐露に成る・・・勿論、相談者は相談と思っていても、相手が、愚痴の吐露と取る場合も有る。
相談をしたいと考えた場合、相手次第で、大きく違う結果に成ると言う事にも成る。
当然、三流の私は、この様な人が少ない・・・私の生活範囲の狭さに成る・・・・
広い人は、相談を受ける可能性も高く成るし、逆に相談できる人も増える事に成る。
しかし、最近の傾向の、格好だけ・カラログスペックだけと言う、自称、優秀や・力が有る人が、大勢いる・・・その様な見かけを信じて、相談すれば、当然、先に書いた様に、愚痴の吐露と取られたり・・・奇麗ごと等を並べられ、結果を得ない事に成る。
要は、見せかけの人も多く居ると言う事・・・その為に、人を見る目が必要に成る・・・
嫁が言っていたが、間違った人に相談すると、口外したくない事も、一気に広がると言っていた。
又、汚い人は・・・弱みを知ったと、強制的に指図する方向性に成る場合も有ると、嫁は言っていた。
信頼した、自分が馬鹿だった、騙されたと成る・・・・
この様な、世界に常態化すれば、当然、人は信用できない、信頼も出来ないと・・・内に向かうし、自己防衛方向に、強い、生き方に成って行く・・・
2019年12月1日日曜日
普通とは何か???
普通・・・この単語の曖昧さに、私は驚いている。
しかし、曖昧な普通を、何故、普通に使うのか????
発している、言葉、表現も、当然、曖昧という事に成るが・・・何故か、この単語を使うと説得力が有る事、驚く部分に成る。
普通と言う単語を無限に使用する、環境も存在する・・・
又、人の数だけ、普通あ有ると思う・・・一人の人間の私も、十年前、三十年前等々、時で普通が違う・・・理由は、環境の変化、己の変化も含みで普通と成る。
誰しも普通の反対この単語の曖昧さに、私は驚いている。
しかし、曖昧な普通を、何故、普通に使うのか????
発している、言葉、表現も、当然、曖昧という事に成るが・・・何故か、この単語を使うと説得力が有る事、驚く部分に成る。
普通と言う単語を無限に使用する、環境も存在する・・・
又、人の数だけ、普通あ有ると思う・・・一人の人間の私も、十年前、三十年前等々、時で普通が違う・・・理由は、環境の変化、己の変化も含みで普通と成る。
誰しも普通の反対の言葉は????・・・・奇遇・特殊・等々多々出て来ると思う・・・
何に対しての基本が普通だが、先に書いた様に普通も、常時変化している事に成る。
之が意味する事は、特殊・奇遇・あり得ない・・異端的、考えも、それは今と言う時を限定して居るだけで、時が経てば、若しかすると、普通に成っている場合も有ると言う事に成る。
しかし、何故か、普通に枯死する・・・変えたくないと言う、思いが強い・・・しかし、本当に之を続ければ、普通が、時代遅れに成るし、異端に成る。
よく、決まりごとは、普通と言う部分を重視して、基準をルール化し、書面化する・・・しかし、普通が変化続けている事には、理解していないし、この変化さえ、悪いと言う考えも存在している。
私のブログの閲覧者は、私のバタバタした、状況、波乱万丈的生き方を、どう感じるかも色々だと思う・・・しかし、当事者の私は、之が普通だと捉えているし、強く言えば、感謝できる、レベルに到達したいとも考えている。
要は、普通だが、普通で無い、奇跡的に、維持が出て来ている事に感謝する事に成る。
要は、私自身の、時間軸を考えても、私を取り巻く環境や文明と言う部分は、発展・楽に成る方向に成ってきた。
この楽な方向性に向かう、時間では、普通と捉えて生きていると言う事に成る。
しかし、之が、苦に向かう方向なら、普通と考えるかに成る・・・・普通で無く、不幸に向っていると三流の私なら捉えてしまう可能性が有る。
個人としても、現実は、普通が上下動しているが・・・当然、基準を何処に定めるかも出て来る。
人として、生まれた・・・ある人は、裸で生まれた、何も持たないと言う出発点・・・之を基準に定めると・・・目が見えだした時に、母の存在を目視する・・・之も普通で無く、幸せ、奇跡と捉えることもできる。
要は、私以外に、誰かが居て、私に奉仕してくれた事に成るし、それが無ければ、今の私は存在しない。
之を当然と思えば、その奉仕も恩を受けたとは捉えない・・・恩も感じない人と言われても仕方が無いと言う事にも成る。
又、その後、人として、教育を受ける・・・物事を知ることに成るが、私は恩を知る為だと考えている。物事を知る、之で、私は、母から生まれた、又、父が居たと言う事を学んだなら、当然、父にも恩を感じることに成る・・・・
学ぶと言う事は、人に対して、感謝できる方向に成るのが本来の目的だと考えている。
しかし、教育と言う事は、色々知る事にも成る・・・私の現状が、他と比べてこの比較に成るし、又、その部分で、感情も出て来る。
私達年代の、者は・・・アメリカと言う、文化・生活を、知ることが出来た、それで何を感じたが、大きな生活の違い、冷蔵庫が有り、冷たいジュースを普通に飲む姿・・・
私の現状は、井戸の水を汲み上げて、桶に溜め、飲む・・・この格差をどう感じたか???私の場合は、恵まれていない、不幸だと捉える事が多かったし、憧れがアメリカ的生活に成った。
しかし、もう少し年代が進むと、恵まれない、国々の現状を知る・・・井戸の水を飲める、之も、奇跡的な事だと、知れば、現状に感謝に成る。
要は、自分の普通と言う基準を何処に定めているかで、幸不幸が決まる・・・
私の普通は、無・死と思っている、無、死・この世に居る時間を見れば、長い人の歴史で一瞬・・・殆どが無か死の状態が普通と考えている。
今は、生が有る・・・この部分は、稀だし、奇跡的事だと考えている。
俺が俺がと、生きても・・・長くて100年で終わる・・死が待っている。
その間、恨み、妬みで生きるか、感謝して生きるか・・・どれを選ぶかも各自の勝手に成る。
私の普通の捉え方に成る・・・・生物としての普通は、生老病死から抜ける事は出来ない・・・・之を知れば、人間としてどう過ごすかに成る。
勿論、寿命は誰しも解らない・・・明日かも知れないし、一時間後かも知れない・・・
もう少し詳しく書けば、無・無・無・・・・・と長く続き、「生老病死」が有り、又無・無・無が続く・・・・「生老病死」の間だけが生きていると言う事に成る。
与えられた、短い期間、何が出来るか、何を感じることが出来るかに成る。
出来れば、この間に感謝できる、様な教育が本来の姿だと私は考えている。
この感謝が、結果として、生物としての、後継者を残す、方向性を創る。
生有る世界で、食物連鎖の頂点に立つ、人間として生まれ、敵は基本居ない・・・しかし、同じ同種が敵と成っている。
生物として、敵が居ないと、何故か共食いを始める・・・之も、生き抜くための必要悪なのかもしれない・・・人間に対して、大きな敵が必要な時代に成ったのかも知れない・・・
その点、日本国は、自然と言う猛威を肌身で感じれる事が、幸いかも知れない・・・
しかし、曖昧な普通を、何故、普通に使うのか????
発している、言葉、表現も、当然、曖昧という事に成るが・・・何故か、この単語を使うと説得力が有る事、驚く部分に成る。
普通と言う単語を無限に使用する、環境も存在する・・・
又、人の数だけ、普通あ有ると思う・・・一人の人間の私も、十年前、三十年前等々、時で普通が違う・・・理由は、環境の変化、己の変化も含みで普通と成る。
誰しも普通の反対この単語の曖昧さに、私は驚いている。
しかし、曖昧な普通を、何故、普通に使うのか????
発している、言葉、表現も、当然、曖昧という事に成るが・・・何故か、この単語を使うと説得力が有る事、驚く部分に成る。
普通と言う単語を無限に使用する、環境も存在する・・・
又、人の数だけ、普通あ有ると思う・・・一人の人間の私も、十年前、三十年前等々、時で普通が違う・・・理由は、環境の変化、己の変化も含みで普通と成る。
誰しも普通の反対の言葉は????・・・・奇遇・特殊・等々多々出て来ると思う・・・
何に対しての基本が普通だが、先に書いた様に普通も、常時変化している事に成る。
之が意味する事は、特殊・奇遇・あり得ない・・異端的、考えも、それは今と言う時を限定して居るだけで、時が経てば、若しかすると、普通に成っている場合も有ると言う事に成る。
しかし、何故か、普通に枯死する・・・変えたくないと言う、思いが強い・・・しかし、本当に之を続ければ、普通が、時代遅れに成るし、異端に成る。
よく、決まりごとは、普通と言う部分を重視して、基準をルール化し、書面化する・・・しかし、普通が変化続けている事には、理解していないし、この変化さえ、悪いと言う考えも存在している。
私のブログの閲覧者は、私のバタバタした、状況、波乱万丈的生き方を、どう感じるかも色々だと思う・・・しかし、当事者の私は、之が普通だと捉えているし、強く言えば、感謝できる、レベルに到達したいとも考えている。
要は、普通だが、普通で無い、奇跡的に、維持が出て来ている事に感謝する事に成る。
要は、私自身の、時間軸を考えても、私を取り巻く環境や文明と言う部分は、発展・楽に成る方向に成ってきた。
この楽な方向性に向かう、時間では、普通と捉えて生きていると言う事に成る。
しかし、之が、苦に向かう方向なら、普通と考えるかに成る・・・・普通で無く、不幸に向っていると三流の私なら捉えてしまう可能性が有る。
個人としても、現実は、普通が上下動しているが・・・当然、基準を何処に定めるかも出て来る。
人として、生まれた・・・ある人は、裸で生まれた、何も持たないと言う出発点・・・之を基準に定めると・・・目が見えだした時に、母の存在を目視する・・・之も普通で無く、幸せ、奇跡と捉えることもできる。
要は、私以外に、誰かが居て、私に奉仕してくれた事に成るし、それが無ければ、今の私は存在しない。
之を当然と思えば、その奉仕も恩を受けたとは捉えない・・・恩も感じない人と言われても仕方が無いと言う事にも成る。
又、その後、人として、教育を受ける・・・物事を知ることに成るが、私は恩を知る為だと考えている。物事を知る、之で、私は、母から生まれた、又、父が居たと言う事を学んだなら、当然、父にも恩を感じることに成る・・・・
学ぶと言う事は、人に対して、感謝できる方向に成るのが本来の目的だと考えている。
しかし、教育と言う事は、色々知る事にも成る・・・私の現状が、他と比べてこの比較に成るし、又、その部分で、感情も出て来る。
私達年代の、者は・・・アメリカと言う、文化・生活を、知ることが出来た、それで何を感じたが、大きな生活の違い、冷蔵庫が有り、冷たいジュースを普通に飲む姿・・・
私の現状は、井戸の水を汲み上げて、桶に溜め、飲む・・・この格差をどう感じたか???私の場合は、恵まれていない、不幸だと捉える事が多かったし、憧れがアメリカ的生活に成った。
しかし、もう少し年代が進むと、恵まれない、国々の現状を知る・・・井戸の水を飲める、之も、奇跡的な事だと、知れば、現状に感謝に成る。
要は、自分の普通と言う基準を何処に定めているかで、幸不幸が決まる・・・
私の普通は、無・死と思っている、無、死・この世に居る時間を見れば、長い人の歴史で一瞬・・・殆どが無か死の状態が普通と考えている。
今は、生が有る・・・この部分は、稀だし、奇跡的事だと考えている。
俺が俺がと、生きても・・・長くて100年で終わる・・死が待っている。
その間、恨み、妬みで生きるか、感謝して生きるか・・・どれを選ぶかも各自の勝手に成る。
私の普通の捉え方に成る・・・・生物としての普通は、生老病死から抜ける事は出来ない・・・・之を知れば、人間としてどう過ごすかに成る。
勿論、寿命は誰しも解らない・・・明日かも知れないし、一時間後かも知れない・・・
もう少し詳しく書けば、無・無・無・・・・・と長く続き、「生老病死」が有り、又無・無・無が続く・・・・「生老病死」の間だけが生きていると言う事に成る。
与えられた、短い期間、何が出来るか、何を感じることが出来るかに成る。
出来れば、この間に感謝できる、様な教育が本来の姿だと私は考えている。
この感謝が、結果として、生物としての、後継者を残す、方向性を創る。
生有る世界で、食物連鎖の頂点に立つ、人間として生まれ、敵は基本居ない・・・しかし、同じ同種が敵と成っている。
生物として、敵が居ないと、何故か共食いを始める・・・之も、生き抜くための必要悪なのかもしれない・・・人間に対して、大きな敵が必要な時代に成ったのかも知れない・・・
その点、日本国は、自然と言う猛威を肌身で感じれる事が、幸いかも知れない・・・
懐かしい面々と・・・
夜、9時に、佐賀の遊道楽さんへ・・・・嫁から、許可が出たので、
四年程前に、完成系に成っていた、田宮のVDSを伴い、伺う計画を立てたが・・・
そのシャーシが見当たらない・・・行方不明に成ってる。
結局は10年以上、触っていないTB-03ケツカキ教習車を、持参して行く事に成る。
しかし、コースに入って、スイッチを入れるが、起動しない・・・電源ケーブルのハンダーの浮きが有るようで、色々すると、電源が入ったが・・・プロポとのミキシングが出来ず、走行を断念・・・
この作業をしていると、一人だった、コースにも人が集まり出す。
今晩は、ケツカキ、私も含め4人・・・勿論、私のケツカキは特殊過ぎるので、一緒に入る事は不可能に成るが・・・二駆も二人に成り・・・
ケツカキ・二駆のベタベタの追走・それも、電車ドリを久しぶりに見ることが出来、感謝して居る。
特に、ケツカキと二駆を同時に観ると、車の戦闘力、迫力等々は、どうしてもケツカキが強く見える・・・特に斜めに掛かる、荷重・ロール感・・・フロント荷重と言う部分は、ケツカキの方が強く感じる・・・
何度が、書いているが、二駆のウィリー的挙動、フロントはピチング方向で、ピョコ・ピョコ感が強く感じる・・・
二駆だけの走行だと、それが普通に成り、この部分は感じ難い・・・
勿論、色んな車に試乗させてもらったが・・・微舵角での車の特性等々も、大きく違うし・・・特に、ドリフトの基本・サイドターン・・パイロンを巻き込むような動きが、二駆の場合、出来ない・・・試しに真直ぐにグリップ走行で、舵角をフルに左右に切っても、真っ直ぐに走る、プッシュアンダーが強いと言うより、実車だと有りえない動きに成る。
サイドターン、真っすぐ出のステア操作での車の挙動、実車とは大きく違う・・・・
この状態で、スラロームテスト、真っすぐな進行方向で、車幅程度、左右にズラス・・高速道路での車線変更的、操作を行うが、出来ない・・・微舵角では車のフロントが動かない・・その為に多めに舵角を付けると、リアが出過ぎる・・パイロン間を狭くしたスラローム的、挙動を示す・・本来、ヨーが発生したら舵角は戻す、センター付近に戻す操作に実車は成るが、何故か、深いカウンターを出す操作が必要に成る・・・カウンタードリフトを目指した、走行で無いが・・・何故か、カウンターが出る。
次は、定常縁に成るが、パイロンを置いた、ギリギリに、小さく旋回させる、之が出来ない・・・本来、カウンターを出さないか、内切り方向に成る筈だが、この部分でもカウンターが出る・・・又・・旋回半径も、数十センチと言う大きさが、ギリギリな小ささに成る。
要は、パワーで本来、巻き込む挙動を示すのが、リア駆動の二駆の実車に成るが・・・この巻き込みがパワーでは出せない・・・小さくリアを巻き込ませる、このパワーで押し切る操作が実車と思うが、何故か、恐る恐るに操作する、この様な感覚に私は成った。
小さな演出が出来難いし、簡単な部分なのに、難しく感じる。
この様な状態だから、当然、八の字走行も、意外感が強くある・・・
全く、フロントに乗る、この感覚が得ない・・・アクセルを緩めると実車ならフロントに乗る筈だか、何故か回して、その回転慣性の利用で、回して抜く、この操作が必要に成る。こんな無駄な操作を行う為には、八の字の旋回半径も大きい方向が楽と、言う、実車とは大きく違う、特性に成る。
之も、リアルを求めている、二駆の世界の現在の状況だと思うが・・昔に比べると、その意外感は、減る方向に成っている感じが私はします。
操作が、独特の形に成っている・・・その部分が実車とは大きく違い、RC独特な部分、勿論、昔に比べて、その大袈裟観は、減って来ているが・・・
四年程前に成るが・・・SAKURA D3 二駆・・ジャイロなしのドリフトの基礎練習の、小さな挙動の、実車との違いの懸賞の為の、動画を今回掲載します。
しかし、現状の環境で、二駆も変化を続けている・・・・ケツカキの方は、基本、変化は少ないが、二駆との追走が、それもベタベタに近づいて来たと言う事は、二駆の変化だと考えている。
二駆の趣旨の本質部分の変化だと私は考えている。
勿論、表面上はリアルは変らないが、現実は変っている事に成る。
私は、昔から思うのが、言い切る・・この部分に不信感を感じる・・・リアルを目指していると言うなら、提案も出来るし、質問も出来る・・・しかし、之がリアルと限定してしまう方向が有る・・・若し正しいなら、変化する必要性は無い・・・正しい事が出来たで、終わったと成る・・・要は飽きると言う事・・・
目標は、目標、今は今・・・この考えが、普通と思うし、それを日頃の言動で示す事が大事だと私は考えている。
何度も書くが、正しいか、正しくないかは判らない・・・人は変化し続けるから、物事を進めている・・・この一点が正しく、今それが出来た等々言えば、それ以上の発展は無い・・・
昨晩、質問を一つ受けた・・・回すと安定した感じを受ける・・・之は、バイクも実車も同じだが・・・凸凹の道を、トレースするように、確りグリップを保って走れば、車は上下等々に大きく揺れる・・・若し、タイヤを滑らせる事が可能なら、少しパワーを与えて、滑らせた方が、共同が穏やかに感じる・・・勿論、スピードも関係するし、慣性力の影響が大きいが、同じスピードでも滑らせた方が、挙動は穏やかに成る。
クローラーの動画を観れば、解りやすい・・路面速度の路面をトレース、勿論凸凹・・車はその形状を確りトレースしようとする・・・しかし、タイヤを滑らせると、凸凹を回避する、路面を探しての通過する方向に、動く・・・
又、こう配が有る、路面を想像すれば、斜めに車が進行・・・・路面を確り捉えていると、落ちようとする、力をステア微操作で修正を与え続けることに成るが・・・少し滑らせると、この操作からは解放されるが、車は低い方向に滑り落ちる様な挙動を示す、それもスムーズに成る・・・スムーズさとは、操作が楽だと感じる、挙動を示す事に成る。
しかしその部分は、操作から離れた挙動を示しているので、瞬時な操作、微変化は難しくなる。
何を選ぶかも、各自の感性に成る。
何度も書いているが、操作を楽しむ、この部分も各自で違う・・・楽を楽しむと言う人も居るし、難しいから楽しいと思う人も居る。
又、環境も大きく影響する・・・先ずは、環境に溶け込む、之を強く意識する人も多く居る・・・この部分が、二駆の環境には、ケツカキは入れない等々と言う事にも繋がる。
同じ、RCでも違いが有れば、馴染めないと言う事にも成る。
ドリフトは、等速四駆の時代から、リアル等々、言われていたし、之がリアル、之が正しい等々は続いている・・・等速四駆のその当時、之がリアルと言う車と、同じ様にケツ海時代に、之がリアルで正しいと言う車・・・今は二駆で、之がリアルで正しいと言う車・・・同じ、リアルな車が三台・・・当然、同じ様にギリギリの追走が可能な筈に成るが・・・現実は、違う・・・それなら、三台で、どれがリアルが正しいかという方向にも成る。しかし、ならない・・・理由は、リアルと言う単語は、単なる題目で、趣旨でないと言う事を知っているからになる。
外部操作のRCで、如何すれば、実車に近付くか、之を模索しづづける世界と言う事にも成る。之が解れば、どんな方向性の車でも、各々が思う、リアルへの取り組みだと評価されてもよいと思うが・・・この部分も一極を目指す、流れが有る為に、認めないと言う風潮が存在する。
今回、掲載する動画は、ジャイロ等は邪道と言われた時代の流れで、作った車に成る。
之も、このジャンルでは、優秀な一流の人の、評価で邪道・・・しかし、現在は???・・・
私は、実車と言っても、市販車しか経験が無いので、市販車のリアル感に成る。
勿論、実車の色々ある、何を求めているかは、各自の経験値でも変わる。
しかし、懐かしい面々と会えた、感謝に成る・・・各々、私生活も含め、合えたと言う事は幸せだと考えています。
追伸、動画はシャーシは、ロールはしません・・・ダンパーなし、リジットに成っています。
勿論、ダンパー等無くても、荷重移動は必然的に起きています。
ロール感を得れるか???・・・
昨夕も色々・・・
夕方・・・・地域の交通安全委員の会長が来訪・・・
我が校区で約30人強の人が、ボランティアで頑張ってある。
頭が下がる・・子供達お登下校の見守り活動も含め・・・地域への貢献の一つの姿だと、私は思っている。
来訪理由は、その会の、書記関係の人が、脳梗塞で倒れられた・・・結果、PCの中に有るデーターの使いから、又・・・年末の会合に向けての資料作りの、依頼に成る。
私は、嫌われ者の為に、基本、名簿等に名前を残す部分への、参加は出来難い、今年は、地域の草刈り隊に、名を遺す事が出来た事が、私に取っては名誉と思う理由に成る。
世の中、色んな事が起きている・・・勿論、三流の私は、世の中の範囲も狭い・・・狭いと言う事は、直接、肌身に感じる部分に成るし、馬鹿な私でも当然、困っている事は解る。
身に感じれば、如何するか????・・・当然、私の様な三流で無能な人間で良いかと思うし、私みたいな下等な人間を・・と・・・思うと、誉にも感じることに成る。
私は、肌身に感じなければ、行動出来ないタイプなので、馬鹿と思う・・・優秀な人は世間を見抜く目も有るし、情報量も凄いと思うので、当然、情報から、感じておられると思うが・・・・私は、直接対話等が無いと解らないタイプと言う事に成る。
前回も書いているが、カーと言えば、ツーで変えすタイプと成る・・・優秀な人は言わなくても解る人達と私は考えている。
勝手に、奉仕が出来る人達と言う事に成る。
しかし、この様な人が多いはずだが・・・会長が、態々・・私の様な嫌われ者に来られる・・・世間の優秀な人は、何処・・・・と・・・思う瞬間にも成る。
私は、分相応と、何時も書いているのも、この部分が有るから・・・大きなことを考えたりしても結果的に、肌身に感じ難い・・・どんな考えをしても・・・現状は直ぐに変わらない・・・
直接的に自分の分で、介入でき、処理できる部分を私は、注視している。
介入できない部分に対して、色々言っても、無意味に近いと考えている。
世の中・・・社会に属しているなら、当然、どの様な貢献をするかが、その属している集団への感謝の証だと私は考えている。
社会や世の中で、どの階層に居るか、どのポジション立場か等々は、誰しも解ると思う・・・己の分を知れば、その分の範囲内だけは・・・協力・考え・汗を流せば・当然、言動の、結果も直ぐに判る。
己の努力の結果が、解り難い、或いは無意味に近い、分以上の部分に多くの時間を割くより、直ぐに感じられる部分に時間を割いた方が、私は良いと考えている。
考えれば、私が言う、感謝と成ると思う・・・世の中の嫌われ者と自覚している、三流で無知な、私に依頼が有る・・・・当然か????・・・私は奇跡的な事だと思うし、誉と思うから、感謝に成る。
分と、出来る出来ないはその人のスキルに成る・・・分と、経験値は違うと言う事・・・
分が高くても、経験値が無く、赤ちゃんに近いなら、周りが色々、施しをする事に成る。
仮に、分が高い立場は、周りから配慮を受け、施しを受ける立場と、思うなら、当然、先に書いた、赤ちゃんが一番・・・分が高いと成る。
分が高いと言う事は、人様に対しての奉仕の、広さが、広いと言う事だと私は考えている。
私は分が低いので、世間・社会と言っても、広く意識して我村位の広さに成る。
この私の、意識できる範囲で、どう振舞えるかが・・・社会人としての立場だし、世間に属させていただいている感謝の具現化だと考えている。
社会の中で生きると言う事は、当然、社会からの施しも有るが、社会と言う集団も人間が構成している・・・要は、施しも人間が行っていると言う事・・・施しを求めると言う事は、誰かの奉仕が有るからに成る。
この部分のバランスが、若し、施しを受けるこの事しか考えない人が、人とは言えないが・・・多く成れば、当然、社会が悪い・住み難い・息苦しいと成って行く・・・
若し、感じたら・・・奉仕が出来る人が少なく成ったと言う事・・之を改善する為には、他人を責める????己を責める????・・・私は、己を責めて・・何故奉仕が出来ない自分なのかと悔いるのが、最低限の人の姿だと考えている。
仮に、目の前の人が困っている・・・誰が手を出すか・・・出せば、難題が多く有る、覚悟が必要に成るし、当然、勇気も必要に成る。
私は、嫌われるから、選ばれるタイプでは無い・・・人に手を貸す立場と成れば、当然、力が必要に成るし、その力とは行動力だと考えている。
今まで、生活保護等々・・福祉関係の処理も・・色々、経験させてもらった。
先ず、最初の壁が、親族・血縁等々の、繋がり・等々の確認に成るし、当然、行政は動こうとしない・・・又、処理をする、事を進めると言う事は・・当然、時間・日数が必要に成る。その間の、生きる為の方策も必要に成る。
行政も縦割りに成っているので、色んな、窓口、要は人だが、その説得に成る・・・
その時に必ず・・・親族・血縁は???と成る・・・だから、その部分も必要に成る。
分が低いので、私が直接肌身に感じるのは・・・国の政治が・・・日本が・・と言う部分より、目の前に有る現実に成る。
仮に、国が戦時中に成っても、目の前の現実の変化は殆どないと私は、考えている。逆に、国の一大事と言う事で、意識が目の前から、遠い部分に向かって・・・目の前の人を見棄てる可能性が高まる・・・
格好が良くて、裕福に見える・・・現代社会だから、目の前の問題も、当然、簡単に手助けが出来ると私は思うが・・・戦時中の様に、小さなことと、見ない方向に成っている感じさえする。
よく、私は地獄図だと表現するが・・・手助けを求める人の手を、地獄なら、見て見ぬ振りをする・・手を踏みつける・・・又はその人を踏み台にする・・等々、想像が出来る。
若し、格好だけは、菩薩に見えるが・・声聞・縁覚の二乗が多い世界ともいえるが・・・二乗を姿を振舞って居るだけで、心は地獄と言う事にも成る。
一神教的な価値観に現すと、心は悪魔だが・・・恰好・見え方は天使と言う事に成る。
要は、目の前の問題に対して、どう取り組むか・・・之が問われる時代だと私は考えている。
私の様な、嫌われ者に依頼が有ると言う事は・・・普通と言われる人には依頼できない、依頼しても断られる・・・この様相が想像できると言う事にも成る。
之が、意味する事は、普通と言う立場は、屁の突っ張りにもならないと言う事にも成る。
この何の役に立たない、普通を目指すのが、最近の風潮と言う事にも成る。
若し、この普通を目指した、結果の優秀・一流と言う立場なら、当然、目の前に、困った人が迫ってきたら・・・排除する方策を、行う人たちに成る。
自分の周りは、奇麗で、過ごしやすい環境を作れる立場と、思っていると思う。
昔、書いているが、上水の上を目指すのか・・・底の底を目指すのか???何処に、社会の本質・基盤が有るかで、方向性が決まる・・・
現代の日本国は、民衆主義で有る・・・民衆と言う部分を、注視すれば、何処が基盤で・本質かは、解ると思うし、その部分の底上げが、大事だと私は考えている。
当然、最近は人間不信と言われる・・・手を差し伸べても、掴む人は少ない・・・泥を噛む様に、踏み台に成る覚悟が必要と言う事・・・
子育てを経験すると、幼い時は、手を差し伸べるこの振舞いでも良いが・・・思春期を超えだすと・・・踏み台の覚悟が親に求められる。
私は、三十を超える、息子が三人いる・・・各々に家庭を持ち、又、一国一城の家長を振舞っているが・・・私の思い振舞いとしては、未だに踏み台の立場を行っている。
解ると思う・・・母は優しい・・・子供に対し手に成る、無償の愛と言って、色々行うのも、想像できる・・・その糧を稼ぐ、之が父に成る。
当然、汗も流すから、息子には強く、言う・・・嫌われる父に成る・・・母は、無償で尽くす・・・好かれる母に成る。
この部分も立場・・分担と言う事に成る・・・一人で天使と悪魔の振舞いをするのは難しい・・・
勿論、二つの立場・ポジションで足らないのが、人間である・・・その為に、祖父母が居るし、叔父・叔母が必要に成る。
集団の中で、生きる人間・・・動物の世界では、親を知らない、子も居る・・・又は母親だけという場合も有る・・・様な、育てる為の親が、多く必要なのが、人間と言う事・・・多々の親が必要なのに、一人で育てると言う無理をする人も居る。
当然、不可能に近いので、何かの協力が必要に成る。
行政の介入・国の介入・・・等々が出て来る。
集団の大事さを知っていて、普通を装いうが、人間としての、本質・・・この部分を理解していない様に見える。
生老病死が有るから、後継者が必要に成る・・・後継者を育てる為には、多くに脳慾が必要に成るし、当然、一人では無理だから、夫婦と言う単位が有る。家族という単位が有るし・・・先に書いた、祖父母や・叔父叔母の意味も出て来ると言う事・・・
各々の立場を、厳守するから、社会として大きな集団も、維持できると言う事・・・
人材・後継者が居なければ、集団の維持も難しい・・・
世間・社会と言っても、人が居るからに成る。
社会の一員と自覚が有るなら・・・己は何が出来るか・・何の奉仕が出来るかを考えることが、社会の一員と言う事に成る。
何度も書くが、奉仕を受けたいと思うなら、奉仕をする事が必要と言う事に成る。
奉仕を受けた恩には、二倍返しで奉仕をする・・・この位の気骨が無ければ、人ではないと考えている。
私は三流だが、人と言う部分は捨てたくない・・・この部分を捨てて、寄生虫の様に、社会に寄生し、甘い物を吸いたいと思うなら、それは人でなく、鬼畜に等しい・・・
勿論、有る時は甘いシュルを吸った・・そのお返しが必要と言う事・・・
若し、甘いシュルを多く吸えることが、一流・優秀と言うなら・・・当然、それ以上に多くのお返しをしなければ、鬼畜と言う事にも成る。
この方向で無ければ、世は地獄図に向かうのは必然と言う事に成る・・・格好は人、それも紳士で綺麗に見え・一流品で身を固めているが・・・本質は鬼畜に成る。
本質が、鬼畜・それを求める、下の階層の鬼畜が居る・・・当然、地獄と言う世界に成る。
我が校区で約30人強の人が、ボランティアで頑張ってある。
頭が下がる・・子供達お登下校の見守り活動も含め・・・地域への貢献の一つの姿だと、私は思っている。
来訪理由は、その会の、書記関係の人が、脳梗塞で倒れられた・・・結果、PCの中に有るデーターの使いから、又・・・年末の会合に向けての資料作りの、依頼に成る。
私は、嫌われ者の為に、基本、名簿等に名前を残す部分への、参加は出来難い、今年は、地域の草刈り隊に、名を遺す事が出来た事が、私に取っては名誉と思う理由に成る。
世の中、色んな事が起きている・・・勿論、三流の私は、世の中の範囲も狭い・・・狭いと言う事は、直接、肌身に感じる部分に成るし、馬鹿な私でも当然、困っている事は解る。
身に感じれば、如何するか????・・・当然、私の様な三流で無能な人間で良いかと思うし、私みたいな下等な人間を・・と・・・思うと、誉にも感じることに成る。
私は、肌身に感じなければ、行動出来ないタイプなので、馬鹿と思う・・・優秀な人は世間を見抜く目も有るし、情報量も凄いと思うので、当然、情報から、感じておられると思うが・・・・私は、直接対話等が無いと解らないタイプと言う事に成る。
前回も書いているが、カーと言えば、ツーで変えすタイプと成る・・・優秀な人は言わなくても解る人達と私は考えている。
勝手に、奉仕が出来る人達と言う事に成る。
しかし、この様な人が多いはずだが・・・会長が、態々・・私の様な嫌われ者に来られる・・・世間の優秀な人は、何処・・・・と・・・思う瞬間にも成る。
私は、分相応と、何時も書いているのも、この部分が有るから・・・大きなことを考えたりしても結果的に、肌身に感じ難い・・・どんな考えをしても・・・現状は直ぐに変わらない・・・
直接的に自分の分で、介入でき、処理できる部分を私は、注視している。
介入できない部分に対して、色々言っても、無意味に近いと考えている。
世の中・・・社会に属しているなら、当然、どの様な貢献をするかが、その属している集団への感謝の証だと私は考えている。
社会や世の中で、どの階層に居るか、どのポジション立場か等々は、誰しも解ると思う・・・己の分を知れば、その分の範囲内だけは・・・協力・考え・汗を流せば・当然、言動の、結果も直ぐに判る。
己の努力の結果が、解り難い、或いは無意味に近い、分以上の部分に多くの時間を割くより、直ぐに感じられる部分に時間を割いた方が、私は良いと考えている。
考えれば、私が言う、感謝と成ると思う・・・世の中の嫌われ者と自覚している、三流で無知な、私に依頼が有る・・・・当然か????・・・私は奇跡的な事だと思うし、誉と思うから、感謝に成る。
分と、出来る出来ないはその人のスキルに成る・・・分と、経験値は違うと言う事・・・
分が高くても、経験値が無く、赤ちゃんに近いなら、周りが色々、施しをする事に成る。
仮に、分が高い立場は、周りから配慮を受け、施しを受ける立場と、思うなら、当然、先に書いた、赤ちゃんが一番・・・分が高いと成る。
分が高いと言う事は、人様に対しての奉仕の、広さが、広いと言う事だと私は考えている。
私は分が低いので、世間・社会と言っても、広く意識して我村位の広さに成る。
この私の、意識できる範囲で、どう振舞えるかが・・・社会人としての立場だし、世間に属させていただいている感謝の具現化だと考えている。
社会の中で生きると言う事は、当然、社会からの施しも有るが、社会と言う集団も人間が構成している・・・要は、施しも人間が行っていると言う事・・・施しを求めると言う事は、誰かの奉仕が有るからに成る。
この部分のバランスが、若し、施しを受けるこの事しか考えない人が、人とは言えないが・・・多く成れば、当然、社会が悪い・住み難い・息苦しいと成って行く・・・
若し、感じたら・・・奉仕が出来る人が少なく成ったと言う事・・之を改善する為には、他人を責める????己を責める????・・・私は、己を責めて・・何故奉仕が出来ない自分なのかと悔いるのが、最低限の人の姿だと考えている。
仮に、目の前の人が困っている・・・誰が手を出すか・・・出せば、難題が多く有る、覚悟が必要に成るし、当然、勇気も必要に成る。
私は、嫌われるから、選ばれるタイプでは無い・・・人に手を貸す立場と成れば、当然、力が必要に成るし、その力とは行動力だと考えている。
今まで、生活保護等々・・福祉関係の処理も・・色々、経験させてもらった。
先ず、最初の壁が、親族・血縁等々の、繋がり・等々の確認に成るし、当然、行政は動こうとしない・・・又、処理をする、事を進めると言う事は・・当然、時間・日数が必要に成る。その間の、生きる為の方策も必要に成る。
行政も縦割りに成っているので、色んな、窓口、要は人だが、その説得に成る・・・
その時に必ず・・・親族・血縁は???と成る・・・だから、その部分も必要に成る。
分が低いので、私が直接肌身に感じるのは・・・国の政治が・・・日本が・・と言う部分より、目の前に有る現実に成る。
仮に、国が戦時中に成っても、目の前の現実の変化は殆どないと私は、考えている。逆に、国の一大事と言う事で、意識が目の前から、遠い部分に向かって・・・目の前の人を見棄てる可能性が高まる・・・
格好が良くて、裕福に見える・・・現代社会だから、目の前の問題も、当然、簡単に手助けが出来ると私は思うが・・・戦時中の様に、小さなことと、見ない方向に成っている感じさえする。
よく、私は地獄図だと表現するが・・・手助けを求める人の手を、地獄なら、見て見ぬ振りをする・・手を踏みつける・・・又はその人を踏み台にする・・等々、想像が出来る。
若し、格好だけは、菩薩に見えるが・・声聞・縁覚の二乗が多い世界ともいえるが・・・二乗を姿を振舞って居るだけで、心は地獄と言う事にも成る。
一神教的な価値観に現すと、心は悪魔だが・・・恰好・見え方は天使と言う事に成る。
要は、目の前の問題に対して、どう取り組むか・・・之が問われる時代だと私は考えている。
私の様な、嫌われ者に依頼が有ると言う事は・・・普通と言われる人には依頼できない、依頼しても断られる・・・この様相が想像できると言う事にも成る。
之が、意味する事は、普通と言う立場は、屁の突っ張りにもならないと言う事にも成る。
この何の役に立たない、普通を目指すのが、最近の風潮と言う事にも成る。
若し、この普通を目指した、結果の優秀・一流と言う立場なら、当然、目の前に、困った人が迫ってきたら・・・排除する方策を、行う人たちに成る。
自分の周りは、奇麗で、過ごしやすい環境を作れる立場と、思っていると思う。
昔、書いているが、上水の上を目指すのか・・・底の底を目指すのか???何処に、社会の本質・基盤が有るかで、方向性が決まる・・・
現代の日本国は、民衆主義で有る・・・民衆と言う部分を、注視すれば、何処が基盤で・本質かは、解ると思うし、その部分の底上げが、大事だと私は考えている。
当然、最近は人間不信と言われる・・・手を差し伸べても、掴む人は少ない・・・泥を噛む様に、踏み台に成る覚悟が必要と言う事・・・
子育てを経験すると、幼い時は、手を差し伸べるこの振舞いでも良いが・・・思春期を超えだすと・・・踏み台の覚悟が親に求められる。
私は、三十を超える、息子が三人いる・・・各々に家庭を持ち、又、一国一城の家長を振舞っているが・・・私の思い振舞いとしては、未だに踏み台の立場を行っている。
解ると思う・・・母は優しい・・・子供に対し手に成る、無償の愛と言って、色々行うのも、想像できる・・・その糧を稼ぐ、之が父に成る。
当然、汗も流すから、息子には強く、言う・・・嫌われる父に成る・・・母は、無償で尽くす・・・好かれる母に成る。
この部分も立場・・分担と言う事に成る・・・一人で天使と悪魔の振舞いをするのは難しい・・・
勿論、二つの立場・ポジションで足らないのが、人間である・・・その為に、祖父母が居るし、叔父・叔母が必要に成る。
集団の中で、生きる人間・・・動物の世界では、親を知らない、子も居る・・・又は母親だけという場合も有る・・・様な、育てる為の親が、多く必要なのが、人間と言う事・・・多々の親が必要なのに、一人で育てると言う無理をする人も居る。
当然、不可能に近いので、何かの協力が必要に成る。
行政の介入・国の介入・・・等々が出て来る。
集団の大事さを知っていて、普通を装いうが、人間としての、本質・・・この部分を理解していない様に見える。
生老病死が有るから、後継者が必要に成る・・・後継者を育てる為には、多くに脳慾が必要に成るし、当然、一人では無理だから、夫婦と言う単位が有る。家族という単位が有るし・・・先に書いた、祖父母や・叔父叔母の意味も出て来ると言う事・・・
各々の立場を、厳守するから、社会として大きな集団も、維持できると言う事・・・
人材・後継者が居なければ、集団の維持も難しい・・・
世間・社会と言っても、人が居るからに成る。
社会の一員と自覚が有るなら・・・己は何が出来るか・・何の奉仕が出来るかを考えることが、社会の一員と言う事に成る。
何度も書くが、奉仕を受けたいと思うなら、奉仕をする事が必要と言う事に成る。
奉仕を受けた恩には、二倍返しで奉仕をする・・・この位の気骨が無ければ、人ではないと考えている。
私は三流だが、人と言う部分は捨てたくない・・・この部分を捨てて、寄生虫の様に、社会に寄生し、甘い物を吸いたいと思うなら、それは人でなく、鬼畜に等しい・・・
勿論、有る時は甘いシュルを吸った・・そのお返しが必要と言う事・・・
若し、甘いシュルを多く吸えることが、一流・優秀と言うなら・・・当然、それ以上に多くのお返しをしなければ、鬼畜と言う事にも成る。
この方向で無ければ、世は地獄図に向かうのは必然と言う事に成る・・・格好は人、それも紳士で綺麗に見え・一流品で身を固めているが・・・本質は鬼畜に成る。
本質が、鬼畜・それを求める、下の階層の鬼畜が居る・・・当然、地獄と言う世界に成る。
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