2019年12月1日日曜日

普通とは何か???

普通・・・この単語の曖昧さに、私は驚いている。
しかし、曖昧な普通を、何故、普通に使うのか????

発している、言葉、表現も、当然、曖昧という事に成るが・・・何故か、この単語を使うと説得力が有る事、驚く部分に成る。

普通と言う単語を無限に使用する、環境も存在する・・・

又、人の数だけ、普通あ有ると思う・・・一人の人間の私も、十年前、三十年前等々、時で普通が違う・・・理由は、環境の変化、己の変化も含みで普通と成る。

誰しも普通の反対この単語の曖昧さに、私は驚いている。

しかし、曖昧な普通を、何故、普通に使うのか????



発している、言葉、表現も、当然、曖昧という事に成るが・・・何故か、この単語を使うと説得力が有る事、驚く部分に成る。



普通と言う単語を無限に使用する、環境も存在する・・・



又、人の数だけ、普通あ有ると思う・・・一人の人間の私も、十年前、三十年前等々、時で普通が違う・・・理由は、環境の変化、己の変化も含みで普通と成る。



誰しも普通の反対の言葉は????・・・・奇遇・特殊・等々多々出て来ると思う・・・
何に対しての基本が普通だが、先に書いた様に普通も、常時変化している事に成る。

之が意味する事は、特殊・奇遇・あり得ない・・異端的、考えも、それは今と言う時を限定して居るだけで、時が経てば、若しかすると、普通に成っている場合も有ると言う事に成る。

しかし、何故か、普通に枯死する・・・変えたくないと言う、思いが強い・・・しかし、本当に之を続ければ、普通が、時代遅れに成るし、異端に成る。

よく、決まりごとは、普通と言う部分を重視して、基準をルール化し、書面化する・・・しかし、普通が変化続けている事には、理解していないし、この変化さえ、悪いと言う考えも存在している。

私のブログの閲覧者は、私のバタバタした、状況、波乱万丈的生き方を、どう感じるかも色々だと思う・・・しかし、当事者の私は、之が普通だと捉えているし、強く言えば、感謝できる、レベルに到達したいとも考えている。

要は、普通だが、普通で無い、奇跡的に、維持が出て来ている事に感謝する事に成る。

要は、私自身の、時間軸を考えても、私を取り巻く環境や文明と言う部分は、発展・楽に成る方向に成ってきた。
この楽な方向性に向かう、時間では、普通と捉えて生きていると言う事に成る。
しかし、之が、苦に向かう方向なら、普通と考えるかに成る・・・・普通で無く、不幸に向っていると三流の私なら捉えてしまう可能性が有る。

個人としても、現実は、普通が上下動しているが・・・当然、基準を何処に定めるかも出て来る。

人として、生まれた・・・ある人は、裸で生まれた、何も持たないと言う出発点・・・之を基準に定めると・・・目が見えだした時に、母の存在を目視する・・・之も普通で無く、幸せ、奇跡と捉えることもできる。
要は、私以外に、誰かが居て、私に奉仕してくれた事に成るし、それが無ければ、今の私は存在しない。

之を当然と思えば、その奉仕も恩を受けたとは捉えない・・・恩も感じない人と言われても仕方が無いと言う事にも成る。

又、その後、人として、教育を受ける・・・物事を知ることに成るが、私は恩を知る為だと考えている。物事を知る、之で、私は、母から生まれた、又、父が居たと言う事を学んだなら、当然、父にも恩を感じることに成る・・・・

学ぶと言う事は、人に対して、感謝できる方向に成るのが本来の目的だと考えている。

しかし、教育と言う事は、色々知る事にも成る・・・私の現状が、他と比べてこの比較に成るし、又、その部分で、感情も出て来る。

私達年代の、者は・・・アメリカと言う、文化・生活を、知ることが出来た、それで何を感じたが、大きな生活の違い、冷蔵庫が有り、冷たいジュースを普通に飲む姿・・・
私の現状は、井戸の水を汲み上げて、桶に溜め、飲む・・・この格差をどう感じたか???私の場合は、恵まれていない、不幸だと捉える事が多かったし、憧れがアメリカ的生活に成った。

しかし、もう少し年代が進むと、恵まれない、国々の現状を知る・・・井戸の水を飲める、之も、奇跡的な事だと、知れば、現状に感謝に成る。

要は、自分の普通と言う基準を何処に定めているかで、幸不幸が決まる・・・
私の普通は、無・死と思っている、無、死・この世に居る時間を見れば、長い人の歴史で一瞬・・・殆どが無か死の状態が普通と考えている。
今は、生が有る・・・この部分は、稀だし、奇跡的事だと考えている。

俺が俺がと、生きても・・・長くて100年で終わる・・死が待っている。
その間、恨み、妬みで生きるか、感謝して生きるか・・・どれを選ぶかも各自の勝手に成る。

私の普通の捉え方に成る・・・・生物としての普通は、生老病死から抜ける事は出来ない・・・・之を知れば、人間としてどう過ごすかに成る。
勿論、寿命は誰しも解らない・・・明日かも知れないし、一時間後かも知れない・・・

もう少し詳しく書けば、無・無・無・・・・・と長く続き、「生老病死」が有り、又無・無・無が続く・・・・「生老病死」の間だけが生きていると言う事に成る。
与えられた、短い期間、何が出来るか、何を感じることが出来るかに成る。

出来れば、この間に感謝できる、様な教育が本来の姿だと私は考えている。
この感謝が、結果として、生物としての、後継者を残す、方向性を創る。

生有る世界で、食物連鎖の頂点に立つ、人間として生まれ、敵は基本居ない・・・しかし、同じ同種が敵と成っている。
生物として、敵が居ないと、何故か共食いを始める・・・之も、生き抜くための必要悪なのかもしれない・・・人間に対して、大きな敵が必要な時代に成ったのかも知れない・・・
その点、日本国は、自然と言う猛威を肌身で感じれる事が、幸いかも知れない・・・


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