2021年10月11日月曜日

感覚を大事にしている。

 私は、己で感じた感覚を大事にしている。

先入観・思い込みというものが私の場合、邪魔をする場合が多い・・・

その為に、己が感じた、事を大事い、物事を考える様にしている。

現代は、多々の情報が、興味が無くても、入って来る。当然、それが己に取って正しいかは別問題に成る。

仮に、普通なら当然歩けると思うなら・・・己が普通と思うなら、歩ける筈に成る・・・しかし、努力しても歩けない人も居る・・・その人は普通で無いのか????・・・私は、人として普通だと思っている。

土曜日、先輩の会社に仕事で伺った、障碍者の息子さんが、作業所が休みと言う事で、先輩が診られていたが・・・10年近く私は会っていなかったが・・・彼は覚えてくれていて、彼の表現で背一杯の挨拶をされていた。

先輩が、お前の事は確り覚えているようだと言われていた。

障害が有る、当然、配慮も必要だが、基本は人間として扱う事だと私は思っている。

相手が理解できなくても、一所懸命に話しかけ、一緒に遊べる事を探すことに成る。

現代は、関わらない事が配慮だと考えている人が多いように思う。

先ずは、相手を知る事に成るし・・・その為の努力をしているかと私は考えている。

共に同じ時と、場所で生きると言う事は、共に解り合う事が大事だと考えている。

その為には当然、行動が必要だし、きつい事なら、努力が必要と私は考えている。

私は、情報は吟味する・・・己で調べ出来れば肌で感じれる様に己でも経験するか、その場所に行くことにしている。

タダ、情報でこの様に得た、それを、そのまま言っても己の思いでも意見でもない・・・若し嘘の情報なら、私は加害者に成ると思うから、己での吟味が大事に成る。

情報なら、この様に聞いた等々が必要だと私は考えている。

もしこの部分が曖昧なら、彼も同じことを言った、又、別の人も同じことを言ったと、それを認めた人が多々居ると成ると、何故、正しいと言う論調へと変わって行くから怖いと考えている。

一度、書いているが、日本国民なら、戦時中、女学生が崖から飛び込む写真を教科書等で見ていると思う。その写真は、サイパン島に有る、高台の崖に成る。

崖から見える所に飛行場が有る。一番最初に連合軍が抑えた場所に成る。

その崖の途中の洞窟が、最後まで抵抗した日本軍の、本部に成っていた。

之も現地に言って、殆ど今は参加されないと言う、ツアーを選んで、知った部分に成る。

日本軍は、石を手に持って、機関銃の前に突入していたと言われる場所である。

当然、万歳ビーチと言われる場所も有り、最終的に玉砕し、日本人邦人も多々居たが、殆どが死んでいる。しかし、島民は殆どが無傷、共に暮らしていたこの状態・・これも不思議である。

色々調べたら、飛行場に邦人を集め・・・火炎放射器や機関銃で、イタブリ殺していた、当然、黄色人種の猿という認識の背負う人、人だとは思っていない時代に成る。

それを間近の洞窟から見ていた、若い兵士は、当然、次から次と飛び込んで行くと、日本人の血を引く私は思った。

倒せる、可能性が0でも行動しなければと成るのが、日本人だと私は思うっているし、その様な血を感じる。

それを、高台の上から見ていた、女学生は・・・・当然、身投げと言う行動に成るのも理解できた。

私はそれ迄、日本国内で、得た情報で、何故、この様な戦局なのに、無謀な事をしたのか、何故、投降しなかったのか???と疑問が有ったし、全て上層部からの命令で自決、玉砕を命令され、それに従っただけ、その様に洗脳された時代が悪いと思っていたが、考えが、この地に行き、一気に変わった。

その後、子供の頃看ていた、アメリカのアニメ等にも、日本兵の髑髏を、玩具の様にして遊ぶ等々が、普通の様に描かれていた事に、気付き・・・

人は全て平等等々と意識は、西欧人が創ったと思い込んでいたが、違う事も次第に判りだす。

私の伯父も、南方で戦死している・・・出征の時に、赤子の私の父に対して・・・人の為、世界の為に成る様に、勉学を父(私からだと祖父)に頼んだと事、新婚直ぐ、己の嫁より、弟に期待を託したと言う事に成る。

その様な人が戦地に行く・・・・何為に戦うか、当然、大義が必要だったと思う。

戦地からの収奪だけが、目的なら、盗賊の様な価値観でなければ、参加できないと私は後に思う様に成った。

復讐の為に戦地に向かう・・・之は人間の本能部分に有る。しかし、日本国の場合、復讐と言う部分は無い・・・結果、大義が必要だったと思う。

又、復讐の為なら、アメリカの漫画で描かれている、状態が解る気がする。


何故、玉砕したのか、意味が有ると私は考えている。

足手まといに成ると言う事で、引き揚げ者の、老人等々は自ら命を絶つ等々も有っている。要は、後世に残せる人は残す、その究極の判断をされえていたと私は考えている。一般国民、民衆でもこの様な事をしている。軍人ならと思うと、納得する部分も有る。

戦争を賛美している訳でない・・・戦争は絶対に避けるべきである。

しかし、過去の現実も、己で吟味し、考える事が大事だと考えている。

当然、私個人の思いだし、考えに成る。人各々違いが有るのが当然と思っている。

その為に、正しいとは思わない・・・この様な思いの人も居ると言う事に成るし、その当時も居た可能性は有ると言う事に成る。

勿論、収奪を目的に戦地に行った、日本軍人も居ると思う。

その人・その人の価値観の部分に成るので・・・色んな軍人が居たと思うし、当然、アメリカ軍も同じだと思う。

しかし、面白いと思うのが、過去の漫画、人の風潮・価値観を表していると私は思うし、それが普通だし、面白いから題材していると思う。

しかし、現代では、放映は絶対にされないと成る。

私のイメージは、ジープに飾りとしての髑髏・・・その絵が、未だに頭に残っている。




今日も何時もの様に・・・

 今日も、嫁を職場に送り届ける・・その足で、私の本業の仕事を二件ほど済ませて・・・・・帰宅した。

流しにタッパ等々の洗い物が大量に有るので・・・その処理を行った。

昔は、タッパも汚れた状態で、燃えるゴミとして処分で来たが・・・今はプラゴミとしての分別が求められている。その為に、汚れた状態では~~~と思い、タッパも新品みたいに洗う作業が必要に成った。

昔は、すーばー等で買う、総菜は、洗い物を減らす意味も有ったが・・・今では逆にその為の容器・タッパを奇麗い処理する必要が出て来た。考え様では、昔の様に、容器を持ち込み、量り売りの方が、無駄が無いと思うが・・・

洗った後は、拭き上げ乾かす作業が有る。普通の食器と同じ扱いだが、食器は又使う為と言う意味が有るし、当事者も感じるが・・・捨てる為にその作業・・・私は必要だが、何か無駄を感じている。

私が幼い頃は、測り売りが一般的だった・・・空き瓶を持って行き、五合下さい等々で、醬油やお酒・・等々の液体の商品を買っていた。

主食のコメも同じで、計り売り・・・重さで無く、合と言う単位・体積に成る。

その為に、マスで計る・・・幼い頃、祖父から。マスの使い方で、重さが違うと教わっていた。米なら上手い人が扱うと2割程の量が違う、当然、少ない量で、一升の単価で売れると言う事に成る。

現代は、全てが重さで、分量を示しているが・・・昔は違ったと言う事に成る。

理由は、重さを測る・・分銅等を使って、天秤ばかりに成るが・・・分銅自体の重さが違えばと言う部分の信用が、一般庶民になかったので・・・目で見えるマスで計る、之が求められたのかも知れない。

勿論、天秤ばかりを扱うのも上手い人・職人芸・下手な人と居ることに成る。

職人芸は、消費者にお得感を感じさせ・・当然、売る側が儲かる計り方が出来る人に成る。

現実に、今はタッパ等の包装材に、内容を記載されている。当然、グラム数・重さの記載が有るが・・・それが正確か等々を消費者は調べていない・・・誤差が認められると言う基準が有るなら、当然、少なくと思う業者も居ると思う。

要は、現代でも、思い込みが有ると言う事・・・

昔話に成ったが・・・・

現代は、便利に成ったが、その分、その後片付けが大変に成っている感じがする。人は大変部分、特に利を生まないと思うと、放置する傾向が有るし、最悪は、不当投棄と成る。

昔は、包装材等々が、後でお金に成っていた。その為に、大事に保管・当然、洗ったりしていた。利を生むから、その為の能力は惜しくないと言う事に成る。

今は、物を買えば、必ず、ゴミが出るし、そのゴミもお金に成らない・利を生まないと成っている。

当然、その様な存在は、人々の意識から消えて行くし・・・・面倒と思えて来ることに成る。

レジ袋も、国次第では、ゴミの中から、取り出し、売る人達が居る。

日本国では、現代はお金を出して、買っている。それなら、使った後、売る事も出来ると思うが、それも無い・・・お金を捨てている事にも成る。

仮に、日本国の場合、年間、一億袋????・・・調べると300億袋が消費されている。仮に3円で買っているとすれば・・・900億円をレジ袋に使っている事に成る。使った後は、ゴミ、それも処理が難しいゴミと言う形に成る。

考え様では、毎日、一人の国民が3円使っていることに成る。約1000円、ゴミ箱に捨てている事にも成る。

日本人は優秀な消費者と私が思うのが、この様な部分に、疑問も意識も向けない人が多いからに成る。

消費は貪欲に続けるが・・・その為の後始末等々に、意識が無い・・・

私の祖父が、言い残した格言と私は思っているが、物は最小限の量が大事、それ以上求めると後処理が出来なくなる。

商売で大繁盛した・・人が老いて言った言葉に成る。

要は、後始末を考えて、事を勧めろと言う事だと私は理解している。

後始末が出来ななら、しては駄目だと己に言い聞かせている。鬼畜の命が強い私は、直ぐにこの部分を忘れてしまう為に成る。

又、宿命なのか???この様な部分に意識が向かわない為に、結果的に、それが見える立場に成っている。見えるから・気持ち的には、仕方が無いと後始末をすることに成っている。

息子達が、素材ゴミ等々を倉庫に持ち込む、当然、私が処理することに成る。

基本、したく無い為に、この様な立場い成ったと考えている。

当然、喜べないが、喜べるように成れば、解放されるかもしれないが・・・


物事は、道理・・・大量にものを食べれば、当然、大量に糞尿をする。

要は、糞尿を求めて、大量にものを食べているのかも知れない。

糞尿が目的なら、当然、それを如何したいか????・・・之も考えている筈。

この部分を考えないで、食べる事だけを考えている、之を貪欲と私は考えている。






分相応

 分相応の生き方は大事だと思うが・・・問題は己の分は????・・・之をどう判断するかに成る。

一般に言われる普通なのか????・・・・私は、一般に言われる普通のレベルで無いと言う事は確りと自覚しているので・・・普通の事と言われても、私には分相応でないと言う、捉え方、判断をしている。

私は私だし、個性も特徴も有るし、それが普通かどうかは、他人様が判断する事で・・・私は私と言うスタンスを取っている。

しかし、最近は、己自身が思う、私が普通と思う事も、老いで出来なく成って来た。己の分も変化していることに成る。

勿論、上昇している時は己の分以上の実力が付いているので・・・感謝の思いが続くが・・・逆に下降している時は己が何故・出来ないと悔いる方向に成る。

之が最近の私の、問題だと考えている。

私は、幸せとは????・・・感謝が続く事だと考えている。

しかし、老いると言う事は、「こんな事も出来なくなった」と言う方向に成る。

この出来なくなる流れの中で、感謝と言う思いをどうすれば出せるのか???・・・之を模索している事にも成る。

この部分は、今まで生きた証だと母は言っていた。

要は、後継者を育てたか???・・・之が問われ出すと言う事にも成る。

しかし、現代、「鶴の恩返し」等々は、死語・・忘れされた状態に社会に成っている。

恩と捉えられない、価値観が蔓延しているので、恩?????と言うのが、今の若者に有る。

恩を、当然の権利と思っているし、普通だし、当たり前と捉えている。

結果、恩を感じないなら、当然、恩を返すと言う考えには至らないと言う事に成る。

之も、我々の自業自得と言う事に成る。

母が言っていた事は、昔なら当然の事だったが、今では・・・・・・無いと言った方が良い・・・

五体不満足に成って行く、之を楽しむと母な言っていたし、それが可能だった、理由は、後継者が、手足に成ってくれたからに成る。

現代の、私の場合、之は望めないと思っている。

他からの施し等々が期待できないと成れば、当然、五体不満足を受け入れて、それを「こんな事も出来なくなった」と喜べる、価値観が必要に成る。

その様な価値観が有るだろうか????・・・哲学書等を見ても無い・・・後は、宗教的部分に成るが・・・・私にはそれを受け入れる、土壌が命に無い・・・鬼畜の命が強いので、仮に足が動かないと喜べる様には、到底、無理である。

分が、劣り出す年代に成り、当然、それも加速しだすと考えている。

要は、停滞・衰退を喜べるか????感謝できるか???と言う、事にも成る。

それが可能と成る為には、死が待ち遠しいと言う思いが必要と言う事にも成る。

今世でするべき事は全て行ったと言う自信が有り・・そろそろ来世へ行きたいと思う事が必要と言う事にも成る。

そうしなければ、老いる事に感謝等、私には出来ない。

しかし、今世を生きている間は、全てに感謝したいと思っている。その為に、多くを知る事に成る。知れば私は恵まれたと言う感謝の思いも当然出て来ると思う。勿論、何を知るかが大事に成る。

本来、鬼畜として生まれてくるはずの私が、人として生まれた、これ自体も感謝なのかしれないが・・・



月曜日

 昔は体育の日として休みだったが・・・・今年は、普通の日と成っている事を私は知らなかった。

朝目覚めたが・・・当然、体調は絶不調・・・・体が動かない・・何時もの事だが・・・目覚めたら、先ずは気合・・・無理しても体を起こす事から始まる。

色んな部位が痛むが・・・騙し騙し、ソ~~ト動かして様子を見ながら、正常に動くように、軽い運動と言う形に成る。

之を毎日続ける事も、私の日課に成っている。

之も、母が言っていたし両親を看ていたので・・・覚悟はしていた部分に成る。

遺伝的に、一番近い、見本が、父母に成る・・・・その為に、病院等の問診でも近い親族の病を記入する様になってる。要は、その様に私も成る可能性が高いと言う事に成る。

しかし、何故か、親の様に成りたくない、俺は別だと言う思いが、若い頃は強かった。

それを母に言うと、若いね~~~と笑っていたが・・・・その気持ちが私も解るようになって来た。

己の将来の姿は、近い親族を見ていると、どれかに当てはまる可能性が高いと言う事・・・

見本が有るなら、備えられると言う事にも成る。しかし、それを怠っていたから、私も親と同じ様に成って来た。

要は、覚悟も、備えが有るか無いかで、変わると言う事・・・・

赤の他人の用には、基本成らないし、それを基本に考える事態が、非現実的と言う事に成る。

父母を看る、昔は当然だった、それで己の将来の姿を想像できるし、備えも出来るし、当然、覚悟も出て来る。

しかし、現代は、何事も、嫌・負の部分から、逃げる・避けると言う方向に成っている。

しかし、現実に老いから逃げる事が、可能なのか????

父が、寝起きに、目立つ場所で運動をしていたが・・・私はバカと思っていた。しかし、それを、今、私が行っている。

親は、私が歩くであろう道を先に歩いて、私に色んな事を見せていると最近思う様に成った。当然、良いと思うなら、感謝も出来るが・・・悪い部分しか見えないから、俺はその様に成らないと思い込んでいたが・・・結果は、親が歩いた道を私も歩いていることに成る。

身を持って親は子に見せているが、それから学ぼうとしない子と言う存在が私だったと言う事にも成る。

人は夫々違う・・・・普通と言う部分を目標に従るが・・・・己に近い人は、父母に成る・・父母の姿が私には普通と言う事だが、一般に言われている普通と違うから、父母の姿を、否定していたい、普通と思わなかった付けが、今、来ていることに成る。

何故、備えていなかったか????自業自得と言う事にも成る。

母は、40を過ぎたくらいから、キツイ・キツイが靴癖だった・・・基本、居間から出ない様に成っていた。

それから30年後、寿命が来て、亡くなった。

当然、その間は、体が劣り出す、それを見て来た。

母が、人の生き死を多く見た方が、己の為に成ると言っていたが、その通りと今は思っている。

要は、人の死に様を沢山、看れるのも生きているから出来る事、それは己の死に対しての備えに繋がると言う事にも成る。

死と言う最後が有るから、何を残すのかも大事に成る。

何度も書くが、「生老病死」を確り、理解する為に生きているし、それを理解しているから、備えられるし、未来に何を残せいるかを考えることに成る。

今朝も、辛かったが・・・ブログをUP出来るまで、体が整ってきた。幸せだと思うし、感謝に成る。

出来る期間が有る。当然、逆に出来なくなる時も来る。最後は死・・・全て幸せだと思える様に成りたいと考えているし、その為には、看て身に付ける事が大事だと考えている。