2021年10月11日月曜日

分相応

 分相応の生き方は大事だと思うが・・・問題は己の分は????・・・之をどう判断するかに成る。

一般に言われる普通なのか????・・・・私は、一般に言われる普通のレベルで無いと言う事は確りと自覚しているので・・・普通の事と言われても、私には分相応でないと言う、捉え方、判断をしている。

私は私だし、個性も特徴も有るし、それが普通かどうかは、他人様が判断する事で・・・私は私と言うスタンスを取っている。

しかし、最近は、己自身が思う、私が普通と思う事も、老いで出来なく成って来た。己の分も変化していることに成る。

勿論、上昇している時は己の分以上の実力が付いているので・・・感謝の思いが続くが・・・逆に下降している時は己が何故・出来ないと悔いる方向に成る。

之が最近の私の、問題だと考えている。

私は、幸せとは????・・・感謝が続く事だと考えている。

しかし、老いると言う事は、「こんな事も出来なくなった」と言う方向に成る。

この出来なくなる流れの中で、感謝と言う思いをどうすれば出せるのか???・・・之を模索している事にも成る。

この部分は、今まで生きた証だと母は言っていた。

要は、後継者を育てたか???・・・之が問われ出すと言う事にも成る。

しかし、現代、「鶴の恩返し」等々は、死語・・忘れされた状態に社会に成っている。

恩と捉えられない、価値観が蔓延しているので、恩?????と言うのが、今の若者に有る。

恩を、当然の権利と思っているし、普通だし、当たり前と捉えている。

結果、恩を感じないなら、当然、恩を返すと言う考えには至らないと言う事に成る。

之も、我々の自業自得と言う事に成る。

母が言っていた事は、昔なら当然の事だったが、今では・・・・・・無いと言った方が良い・・・

五体不満足に成って行く、之を楽しむと母な言っていたし、それが可能だった、理由は、後継者が、手足に成ってくれたからに成る。

現代の、私の場合、之は望めないと思っている。

他からの施し等々が期待できないと成れば、当然、五体不満足を受け入れて、それを「こんな事も出来なくなった」と喜べる、価値観が必要に成る。

その様な価値観が有るだろうか????・・・哲学書等を見ても無い・・・後は、宗教的部分に成るが・・・・私にはそれを受け入れる、土壌が命に無い・・・鬼畜の命が強いので、仮に足が動かないと喜べる様には、到底、無理である。

分が、劣り出す年代に成り、当然、それも加速しだすと考えている。

要は、停滞・衰退を喜べるか????感謝できるか???と言う、事にも成る。

それが可能と成る為には、死が待ち遠しいと言う思いが必要と言う事にも成る。

今世でするべき事は全て行ったと言う自信が有り・・そろそろ来世へ行きたいと思う事が必要と言う事にも成る。

そうしなければ、老いる事に感謝等、私には出来ない。

しかし、今世を生きている間は、全てに感謝したいと思っている。その為に、多くを知る事に成る。知れば私は恵まれたと言う感謝の思いも当然出て来ると思う。勿論、何を知るかが大事に成る。

本来、鬼畜として生まれてくるはずの私が、人として生まれた、これ自体も感謝なのかしれないが・・・



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