今日も、嫁を職場に送り届ける・・その足で、私の本業の仕事を二件ほど済ませて・・・・・帰宅した。
流しにタッパ等々の洗い物が大量に有るので・・・その処理を行った。
昔は、タッパも汚れた状態で、燃えるゴミとして処分で来たが・・・今はプラゴミとしての分別が求められている。その為に、汚れた状態では~~~と思い、タッパも新品みたいに洗う作業が必要に成った。
昔は、すーばー等で買う、総菜は、洗い物を減らす意味も有ったが・・・今では逆にその為の容器・タッパを奇麗い処理する必要が出て来た。考え様では、昔の様に、容器を持ち込み、量り売りの方が、無駄が無いと思うが・・・
洗った後は、拭き上げ乾かす作業が有る。普通の食器と同じ扱いだが、食器は又使う為と言う意味が有るし、当事者も感じるが・・・捨てる為にその作業・・・私は必要だが、何か無駄を感じている。
私が幼い頃は、測り売りが一般的だった・・・空き瓶を持って行き、五合下さい等々で、醬油やお酒・・等々の液体の商品を買っていた。
主食のコメも同じで、計り売り・・・重さで無く、合と言う単位・体積に成る。
その為に、マスで計る・・・幼い頃、祖父から。マスの使い方で、重さが違うと教わっていた。米なら上手い人が扱うと2割程の量が違う、当然、少ない量で、一升の単価で売れると言う事に成る。
現代は、全てが重さで、分量を示しているが・・・昔は違ったと言う事に成る。
理由は、重さを測る・・分銅等を使って、天秤ばかりに成るが・・・分銅自体の重さが違えばと言う部分の信用が、一般庶民になかったので・・・目で見えるマスで計る、之が求められたのかも知れない。
勿論、天秤ばかりを扱うのも上手い人・職人芸・下手な人と居ることに成る。
職人芸は、消費者にお得感を感じさせ・・当然、売る側が儲かる計り方が出来る人に成る。
現実に、今はタッパ等の包装材に、内容を記載されている。当然、グラム数・重さの記載が有るが・・・それが正確か等々を消費者は調べていない・・・誤差が認められると言う基準が有るなら、当然、少なくと思う業者も居ると思う。
要は、現代でも、思い込みが有ると言う事・・・
昔話に成ったが・・・・
現代は、便利に成ったが、その分、その後片付けが大変に成っている感じがする。人は大変部分、特に利を生まないと思うと、放置する傾向が有るし、最悪は、不当投棄と成る。
昔は、包装材等々が、後でお金に成っていた。その為に、大事に保管・当然、洗ったりしていた。利を生むから、その為の能力は惜しくないと言う事に成る。
今は、物を買えば、必ず、ゴミが出るし、そのゴミもお金に成らない・利を生まないと成っている。
当然、その様な存在は、人々の意識から消えて行くし・・・・面倒と思えて来ることに成る。
レジ袋も、国次第では、ゴミの中から、取り出し、売る人達が居る。
日本国では、現代はお金を出して、買っている。それなら、使った後、売る事も出来ると思うが、それも無い・・・お金を捨てている事にも成る。
仮に、日本国の場合、年間、一億袋????・・・調べると300億袋が消費されている。仮に3円で買っているとすれば・・・900億円をレジ袋に使っている事に成る。使った後は、ゴミ、それも処理が難しいゴミと言う形に成る。
考え様では、毎日、一人の国民が3円使っていることに成る。約1000円、ゴミ箱に捨てている事にも成る。
日本人は優秀な消費者と私が思うのが、この様な部分に、疑問も意識も向けない人が多いからに成る。
消費は貪欲に続けるが・・・その為の後始末等々に、意識が無い・・・
私の祖父が、言い残した格言と私は思っているが、物は最小限の量が大事、それ以上求めると後処理が出来なくなる。
商売で大繁盛した・・人が老いて言った言葉に成る。
要は、後始末を考えて、事を勧めろと言う事だと私は理解している。
後始末が出来ななら、しては駄目だと己に言い聞かせている。鬼畜の命が強い私は、直ぐにこの部分を忘れてしまう為に成る。
又、宿命なのか???この様な部分に意識が向かわない為に、結果的に、それが見える立場に成っている。見えるから・気持ち的には、仕方が無いと後始末をすることに成っている。
息子達が、素材ゴミ等々を倉庫に持ち込む、当然、私が処理することに成る。
基本、したく無い為に、この様な立場い成ったと考えている。
当然、喜べないが、喜べるように成れば、解放されるかもしれないが・・・
物事は、道理・・・大量にものを食べれば、当然、大量に糞尿をする。
要は、糞尿を求めて、大量にものを食べているのかも知れない。
糞尿が目的なら、当然、それを如何したいか????・・・之も考えている筈。
この部分を考えないで、食べる事だけを考えている、之を貪欲と私は考えている。
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