2021年11月3日水曜日

里へ・・・・

 暫くは、嫁里に行く事が続くと思う・・・・

今日は・・・弔問客で解らない人が居ると言う事・・・理由は香典返しの為に成る。

受付等で、親族と、一般と別れているが・・・親族の方に書かれた一般客が居たと言う事に成る。

嫁の関係者と言う事が解ったので、その場で渡していた香典返しを・・・自宅に届けることに成った。

弔問客、色んな関係性で来られる・・・当然、私達や、息子達の関係者も居る。

それを判断するのも、喪主としては難しくなるために、受付で、情報を書く必要性も有るが・・・・・・


今、長男から嫁に電話・・・今日は休み、家に居るかとの確認・・・嫁が居ると言ったら、飯を食いに来ると言っている。

若嫁と娘はお出かけとの事・・・・

今日も騒がしいい午後に成る様だ・・・・

嫁里は、出来の良い、子供達が居るが・・・何時も、静か・・・人の気配も感じない・・・

之が普通と言う時代なら、寂しいと私は思うが、普通と違う環境が普通に成っている私独特の考え方に成るかもしれない。

価値観の多様・・・幸福の多様に成る。

 捉え方、価値観に成る。

価値観が多様化すると言う事は、幸福感も多様化すると言う事に成る。

形に捕らわれない、幸福感が有るか無いかが、今後の社会での問題と成る。

若し、同じ価値観なら、幸福と言う捉え方も同じに成る・・・全て反作用が有ると書いたが、パチンコも、勝つ人が居ると言う事は、勝つ人以上に負ける人が居ると言う事・・・

同じ価値観で、勝つ事が幸福だと捉えるなら、パチンコの場合、不幸な人を多々輩出していることに成る。

私が、価値観の多様化は大事だと書いている理由に、捉え方の多様化が、幸福度を増すと考えているからに成る。

有る価値観では、損と捉えるが、別の価値観だと、徳と捉えるなら、バランスが取れていて、全ての人が幸福と感じることに成る。

今回、義父が逝去した・・・しかし、新たな命が生まれて来ている。バランスが取れているなら、幸せだと私は考えている。

出棺の時に、義父の孫が、担いだ当然男子に成る・・・その数が6人・・・現代なら凄い事だと思う。

勿論、それ以上に居る、見守っている孫も居る・・幸福だと私は勝手に思っている。

要は、バランスを保ち、守る為に生き続けたと言う事だし、その結果が、出棺の時に見えたと言う事・・・

数値が違う事が、当然、後は捉え方に成る、それを不幸、不公平と思うのか、当然と思うのかで変わる。

私は、ゴミ拾い、草取り、等々を日課と思って、行っているし、それが行える事を幸せ・幸福だと考えている。この様に考えるから、出来ていると思う。勿論、体が思う様に成らないので、簡単でないが・・・

若し、この様な下働きを不幸と捉えるなら、行為自体が不満に成る・・・この様なタイプなら、当然、上げ膳据え膳をして貰える立場が、幸福だと思っていると言う事、要は、パチンコで勝ち続ける事を幸福と思っているし、それを目指している、その為には、何でもする、悪い事、反則も当然行うと言う事に成るし、この行為で負け続ける人が居ても、気に成らないと言う事にも成る。

同じ、思い、価値観で、全ての人がパチンコを行っているなら、反則で勝ち続ける事を、当然認めないが、己がする事は善と考えることに成る。

要は、無法地帯での、勝負ことに成る。地獄と言ってよい・・・

私は、貧乏だし、蓄えも無い・・・しかし、何故か、未来に希望が持てる・・・唯物的、支えは無いが・・・何故、思えるか????・・・私独自の価値観が有るからだと思う。

しかし、裕福で、蓄えが有っても、将来に対して不安がある人も居る、之もその人の価値観から来ていると考えている。




信用に値する

 よく、優秀な人や一流の人が、他に対して使う言葉の一つに「信用に値するか???」が有る。

勿論、優秀で一流の言われる人達の、考え方に成るが・・・三流の私が勝手に思うのは、人間は色々いる、当然、色んな価値観も有る・・・何度も書く様に、失敗も間違いも嘘も吐く・・・勿論、その量も人で変わる・・・この許容範囲も、三流の私より、広いと勝手に思っているが・・・現実は、信用に値しないと些細な事で言う、人は、何故か優秀や一流と言う人に多いように感じる。

私は、嘘も言う、能力も無いし、当然、失敗も間違いも多々起こす、我子も、信用とは考えていないが、それを身捨てる訳にも行かず、背負い続けようと思っている。

若し、三流の私が、我が子に対して、「信用に値するか???」と尋ね、優秀で一流の人の様に、値しなければ、排除する様な発言を行っていたら・・・子供は、信用に値する様な振舞いを演じだすと思う。演じる、当然嘘に成る。

先のブログに書いたが・・・・若し、信用と言う単語を、人を縛り、己の思う方向に振舞う様にする為に使えば、独裁者と同じだと書いている。

立場が高い人に対して、信用に値する、己を示す事が、求められれば、信用の使い方が違うと考えている。

本来、信用に値するは誰しも仕える言葉と思うが・・・何故か仕える立場が固定されている。要は、リーダー的立場が使っている感じがする。

リーダーの思う通りに成る、部下と言う意味にも成る。若し、その様な人で無ければ、信用に値しないと見なされる。

若し、集団と言う括りで、家庭でもこの流れに成れば、子は、親の思う通りの振舞いを演じ続けなければ成らない・・・要は、嘘を演じ続ける事に成る。

又、この様な家庭が普通に成れば、親の思う様な振舞いが出来ない子は、不要・不必要と言う排除の方向に成し、その様な家庭は、不幸だと言う事にも成る。

難しいと思うが、唯物的、現象や振舞いの部分に、信用や信頼と言う、方向性からの脱却が必要だと考えている。

仏教の中に、簡単に書けば、鬼で有っても仏性が有ると言われる、この命・心の部分に対しての信頼・信用と言う事も、少しは、考える時期が来ていると私は考えている。

最近、息子が、鬼滅の刃と言う、アニメに対して内容を、凄いと私に説明して来るが、仏教思想が反映していると、私は勝手に考えている。

要は、息子が凄いと言っている部分は、仏教の思想と言う事・・・

鬼でも、人生が有るし、過去が有る。その中で、仏性も有ったが、それを無くす事柄が強く有った。可哀そうだし、運命の非情さにも成るが、その逆も有ると言う事にも成る。

要は、善と仮定するから、悪が出て来る。全て反作用が有ると言う事・・・勿論、バランスしている時は、問題が表面化しない・・・しかし、バランスが壊れると表面化し、問題化する。

マスコミ等も、数字等の唯物的部分を見せている、しかし、捉え方に成る。この捉え方を、優秀で一流と言う人の個人的、意見で、一方向に向かわせている感じがする。

20世紀は、結果主義と言う時代・・要は、唯物的、数値で有る。その大小で判断する、勿論、捉え方に成るが、一極に成った。

唯物的結果を得たが、本当の結果、心は????・・・之を悟ったと思うが、未だに続いている。唯物的、数値的には、世界一のアメリカを超えたとも言われた日本国・・・何故、気付かないのか????・・・私は不思議でならない、若し、又、世界一と言われる数値が出ても、国民の心は????・・・経験しているので、解っていると思う。

要は、数値は1でも違うが、捉え方い成る、それ以上に大事な部分が有ると考える時期だと私は思っている。



普通に使われる信用・・・切望に答える足かせ・・・・

 現代・・・普通に使われる信用???・・・とは・・・・

ブログ上に私は、我子でも信用しないと書いているが・・・信用の捉え方、考え方が、私の場合、現代の人達と違うと思うので、信用しないと書いている。

信用とは?????・・・現代の意味は、確かな事と受け入れる事が出来る、又は振舞いが結果的に信頼があるから捉えられた時・・・

しかし、現代人が、現実に使う信用とは、勝手な己の思い込みと違うから、信用していたのに騙されたと成る。

四男の時も、若嫁里から、何故、四男夫婦を信用できないのか????親なら信用出来る筈と言われた。

この様な人が現代多い・・・・己が信用できる人は????当然、己が思っている普通以上の事が出来るから、信用していると言う事に成る。

普通の人は????人間である。間違いも起こすし、心配もする、当然、嘘を言う人も多く居る。これが普通と捉えているのか????

少しの失敗・間違いでも感情が高ぶる人が多い現代で・・・普通のレベルは上がっている。

この高い欲求の普通が有り、それ以上に属するから信用されたと言う事にも成る。

私も、欲が有るし、要望・要求も有る、それに応えられることが信用と言うなら、誰も信用できないと成る。

若し、之が現代、常態化しているなら、信用した人に対して、見栄を張ることに成る、この振舞いを続けないと信用を無くすと言う事にも成る。要は、嘘の振舞いを見せ続けると言う事にも成る。

要は、独裁者が、お前を信用していると言う言葉を発して、奴隷を己の思う通りに動かす方法と同じ、意味合いで信用を使っている人が多いと言う事に成る。

若し、之が目的なら、簡単に人を信用できると言える、又、信用す無ければ成らないと、簡単に言えることに成る。


人を縛る方法で、信用や信頼と言う単語を利用する人が居ると言う事だし、その様な使い方をする人が多いから、信用していたのに騙されたと、言う人が増え続けている。


今回、我家では義父の葬儀と言う、簡単に書けば、イベントが有った。

イベントに参加する、又、酸化しなければ成らない立場が、私の家族、全体と成る・・・

当然、個々に環境も、経済力も、考え方も違う・・・

人数も、少ない方で無い・・・之を一方向にまとめる・・・当然、難しくなる。

一言、何時から通夜が有る。本葬が有ると、言って・・・集まって来るとは私は思わない、勿論、この程度で集まるのが、普通かも知れないが、我子は普通で無いと私は考えている。

香典も持たない・・・礼服も持たない・・・若嫁も色んな考え方が持っている。

一方向に向ける事は難しいと思っているし、それが、私は普通に成る。

基本、私が想像通りに、予想していた通りに、事が進んだことに成る。

勿論、私が楽で、利を得たと言う方向で無い・・・・私にはキツク・多々の出費に繋がったが、我家内で、処理できたことに感謝しているし、若し出来なかったら、他の家に迷惑や心配を掛けた事に成る。

要は、ギリギリ許せる、範囲で終わったことに感謝している。

之を現代の、信用の使い方で、行っていれば・・・信用していたの礼服を持たないと参加しなかった息子が居た・・香典の準備が出来なくて参加しなかった子が居たと成る。

要は、私の信頼、信用を無くしていることに成るが・・・その責任を子に押し付けていることに成る。

よく、会社等の不祥事で・・勿論、社長は全く知らないと思われる事でも、社員が勝手に起こした事と、社長が言ったら、世間はどう捉えるか・・・・

社員も勿論、人間である・・・失敗も間違いも起こすし、嘘も言う・・これを管理、監督する、又ホロー出来る・・・会社と言う器が有り、それでも問題が対外的に成れば、当然、社長が頭を下げ、社長を責任を背負う事に成る。

野球チームの監督も同じと成る。

この長と言う責任と義務を放棄する、言葉に、信用と言う言葉を使っている人も居る。

チームとして、この山の頂上に立つと目標を決めたなら・・・チーム内には色んな人が居る。当然、五体不満足の人も居る可能性が有る。

この様に簡単に登攀できる人だけでは無いと言う考えが有るか無いかに成る。

若し、居る事が解れば、その措置を取る・・・之が、チームリーダーの責任と義務に成る。

しかし、若し、チームリーダーが、登攀できる人しか居ない、之が普通のチームと思っていたら、登攀できない人は、要らない、不要・迷惑と捉えることに成る。

この時に、又、信用と言う言葉を使う場合も出て来る。登れると信用していたのに・・・・管理能力が無いと言う証拠に成る。

私は子沢山、それも上の子達は、凄い悪ガキだった・・・その為に警察に迷惑を多々掛けたが・・・・その都度、他の子の、親御さんが、言われていた言葉が、子を信用していたのに・・・・信用しているなら、その悪い部分も背負うと言う覚悟が有ると私は考えていたが・・・それが無い、事に驚いていた。

私はその都度、土下座、親の分が無い為と頭を下げていた。

又、信用していた、家から、大きな音を立て、バイクで出て行き、少し離れたところで、コールを行う音がする、何故、我子と思わないのか????・・・之も不思議と思う。

検挙されて当然の行いを行っていた事は、私は想像していたから、その都度、叱っていたが、親としての分が無かったので、その指示に従わなかったと言う事に成る。

結果、私が全責任を負いますと言う、振舞いに成ると思うが・・・・



文化の日・・・・

 文化の日の祝日・・・昔は、明治天皇の誕生日に当たる・・・・現代はその様な事を気にせず・・・文化を楽しみ・考える日だと私は考えている。

集団生活を行っているので・・・大きな括りに文化も有るし・・個人としての文化も有ると思う。

その文化????・・・文化とは・・・私は、今以上に良く成って行く為のものと考えている。勿論、各自、良いと言う部分も違うと思う・・・しかし、人類が幸福に向う為の文化だと私は考えているし、人が与える物でも無いし、己で創り上げる事が大事だと考えている。

その為に、何が己で出来るかを、考える日でも有ると考えている。

生物の中で、文化を意識し考える事が出来る、生物は?????・・・人間しか出来ないと私は思うし・・・人間として生まれたなら、文化を楽しめる為に生まれたと考えている。

勿論、物事を創り出すと言う事は、大変な事だが、それを楽しめるだけの能力が人間には有ると言う事にも成る。

要は、己以外の為に、何が出来るか????当然、良い・幸福に向う為には???と最低でも人間なら考える事が求められていると思うし、それが夢を生み、希望に繋がると考えている。

文化とは、大いなる希望とも言える・・・・