今日は清掃のために、廊下の掃除が行われている。掃除の仕方が独特、カーペットを濡らして、其れを乾かす為に、大型の扇風機と、送風機で、風を送り乾かすという方法、大型の送風機は、何故か私の部屋の前に置かれ、大きな音が、一時間以上、耳に騒音として入ってくる。何の音かも説明がないので、ナースコールを押して看護師に確認して、掃除のために出ている乙之子と、本来作業を行なう前に説明や使用時間等の配慮が有るのが普通と思うが、この病院はこの様に、現場の勝手な振舞が当然の様になっているし、掃除している担当に説明を求めると、腕を組んで、我々は関係無いと言う雰囲気、文句があれば、上にという雰囲気、頭に来たので、スッタフルームに・・・色々言っても意味が無いので、私の部屋に20分でも居てくれ、耐えれるか????私以外の患者さんは意思疎通も出来にくい人、その様な人に甘えているのか、己の感覚で確かめろと言って、その後、看護師長と、昼過ぎまで、この件や、この様な、この様な事が当り前の様に起きている事に対しての、現場の捉え方の問題等々を話した、改善、無き集団は、腐り・崩壊していく、改善とは、何の為の仕事、この哲学が確りしているかになる。患者の為が医療機関になる。此を忘れ、医療従事者や其れの付随する人の為の集団となれば、当面は良いが長くは続かないし、粗が見えだし、崩壊し出す。私は、危篤に数度成った。その危機を救ったのは、一人の若い男性の看護師、救いたいという思いで、必死に己で出来る事を行った。医師を待つ此が現代なら普通の方法、しかし、待てないと思い、己で出来ることはする、当然、責務を背負う覚悟を担い、勇気があった行動だと私は思って居るし、その必死さが、私の肋骨も折っている、心臓マッサージ・・・この必死さが私を救った。事を進めるという事は、責任を担うという事、この責任を担わなければ、事は進まない、又、以前は席に胃を背負うには其れだけの裏付けが必要と思っていた。今はその裏付けとなる。力が無い、此が今は良い方向に向っている。力が無いので責任を背負うと言っても相手も期待しない・・・・結果、頼ってくる人も減る。以前、四男の件で、結婚相手の親に、私の目の黒いうちは迷惑を掛けないように努力すると言っていたので、色んな請求を受けていたが、この様な状態に成り、矛先が変っている。この様なタイプは絶対に諦めたりしない、本来、己の責任だが、人の背金と転換して、請求先を変えていく、この様な生き方が良いという流れにも成っている。現実の、お金が幸せと捉えるならこの様な生き方も正しいとなる。慰謝料を一億・二億と簡単に言う親、現実の子は、中学校の頃から登校拒否・家にも帰らず、転々と泊まり歩いていた子、気が休まる家が無い問うことで、我家に居座り、結果として四案と結婚、私は反対したが、家族が可哀想と言う子で、結婚、条件としては我家で生活させるとしていたが、子を信用できない親など居ないと、相手の親から言われ、別所対になり、結果、数ヶ月で離婚、アパート、家賃未納や、撤去のための費用が100万ほど、払えたから良いが、今なら無理である。子宮筋腫の治療という事で、毎月二万私、彼女の里の近所の参加に送り、終れば迎えに行くという作業を続け、其れも意味が解らない、病気・治療という事に対しては、他人誰、己で出来ることは精一杯行う、此が人だと私は思って居る。お産費用も、考えられない金額を請求され、支払ったという領収書も、色々な言い訳を言われ頂いていない。金額が高いのは帝王切開と言われたが、他院の日は普通分娩と同じ、不仕事思い、請求を請求しても、信用できないのかの大剣幕に成られる。
現代、事柄に対して、必死に取り組む人を馬鹿にした風潮がある。今日も、掃除の人達は、送風機を回した状態で、腕を組んで、待機してある。私が騒いでいても、我関せず・・・・此がプロの仕事は私は思わない、この様な集団・組織が、大きく成り、地域の多き組織に成って、正しいとなっていく、民衆不在の世の中になっている。