今、入院している・・・想定外の事が起きる・・入院患者さんも個性が色々・・・今にも死にそうに、せき込んで居られる人居る・・・その咳が常時続く、同じ病室に若し私が居たら、精神的に参ると思う。要は、私の想定している外に存在と言う事に成る。
目の前で起きている、事柄が、想定内で、収まっている・・・これは平時と言う事に成る。
若し、想定外の事柄が起きれば、一大事・非常時・・・・パニックに成る。等々に成る。
要は、想定の範囲を広げた方が、平時の時が多いと言う事に成る。
勿論、悪いと思え有れる方向に広げて行く事に成る。要は、探し出すような作業・・・祈りにも似ていると私は思っている。
誰しも、期待もしていない、待っても居ない、嫌な事を考える・・・・
之は余談だが・・・祈りとイメージして何を祈る。私が祈りに似ていると言う、普段、考えもしない、
事を頭にイメージするか????・・・不思議にしない・・・何故、逆の不可能に近い、己求めるものをイメージ出来て・・・・現実に有りえる、「初老病死」のこの現実は、避ける・逃げる・忘れる方向へ何故、祈れるのか????祈っても、必ず人は死ぬ・・・・
若し、死が想定外だったら・・・パニックに成るのは必然・・・又、この様な現実からの逃避が可能な筈もないと解っていて・・・妄信する人も居る。
何故、現実からの逃避が祈りに成っているのか????私は不思議でならない・・・現実を受け入れる為に祈りと私は考えている。だから、祈ると言う事は、考えることに成る。
考えて、現実を広げていく・・・最終的に全てが想定内に成れば、何も恐れる事は無いと私は考えている。
何度も書くが、共存と言う意味も有る。負も共存である。利だけと言う不可能を願っても意味が無い・・・・利も負も、共存している。
若し、祈りが通じる力を持つ、仏や神なら・・・何を祈っているか????・・・己に利をと祈っているか????・・・己に負をと祈っているか???・・・・等々、色々イメージすれば判ると思うし、逆に、人間程度の力ならどの程度の通じ方をしているかも想像が出来ると思う。
私は祈ると怖くなると、書いた事が有るが・・・祈れば、最悪が頭を過る・・・結果、想定の範囲が広がる・・・勿論、何故か、悪い方向に・・・・・しかし、それが現実に起きる・・・これも不思議だ・・・・この想定内に留まっていたから、今、私は生きている。
若し、想定外と成っていたら、当然、死んでいたと思う。又、一家離散と成っていたと思う。何故、耐えれたか???想定の範疇だったと言う事が、真実に成る。