今日、テレビで、成年後見人制度の問題点等が話題になっていた。
本来、昔のように、家と言う単位で事を考えていた時代なら・・・家の中に人の手を必要とする人が居ても、それをカバーできる人も居た。
何度も書いているが、この制度、家督制度と言うと、嫌な感覚になる人も多いが、このシステムで事が動いていたし、当然、このシステムを用いた行政サービスにも成っていた。
しかし、家督制度が滅び、今は、家・家族という部分も崩壊し、孤立化に向かっている。
結果、文字も理科出来ない・読めない・書けない・・・等々の人も昔も居たがカバーする家族が居た。しかし、現代はこの人が居ない・・・結果、誰が手を貸すか・・・此が居ないから、成年後見人制度が出来、裁判所が認定する事に成っている。
私も地域の困ったチャン等々で、成年後見人の依頼が何回か有ったが、私は、三流で、嫌われ者、劣っているし、間違いも失敗も起すし、明日の事も保証できないのに、出来るわけが無いと断り続けた。勿論、面倒を看る、己の勝手で看る、此は続ける事が出来るが・・・将来までの保証は出来ないというのが私の考えだし、私は人間・神では無いと思っている。
一度、後見人になると、今までは己の都合で世話をされたが、責任と義務が確り出てくる。出来ないとは言えないし、お金の管理等も行い、何時、呼び出しが有っても動ける、覚悟が必要に成る。当然、無料では出来ないとなるし、逆に対価を1円でも居ただけは、100%の責任と義務が発生する。
大阪に居る、困ったチャンも、弁護士が後見人になっていたが・・彼から取れる、物が無い、それ以上に手が居るし・・・大変・・・結果、後見人を辞退されている。
彼の家の借用書・権利証等は、彼の母が私に渡している。それも、権利が無いと、弁護士から渡せと言われた、結果、全てをコピーで渡した。
法律的に、私には何の権利も無いと言うのが、弁護士の言い分・・・此がまかり通れば、善意で、当然、無理をして、人に尽くす人達は、居なくなっていく・・・目の前で老婆が困っている、当然、お金になれば、己の分で出来るならと、渡す・・・当然、貸し付けたと成るが、返済が出来るとは思っても居ない、勿論、今世に成るが・・・
此を続けていく中で、借用書を書くとなるし、権利書を預けると成っている。求めたわけでも無い・・・しかし、この行為が結果として、家を守る事に成っている。未だに、人手に成っていない、空き家の状態・・・
又、この件は以前のブログでも書いていたが・・・台風等々のある前に、養生の為の処置等々、又、周りからのクレームも私が行っていた。
しかし、一度、後見人が弁護士という事で、この家に近づく、敷地に入れば、警察に通報すると成ったために、私に問題等々を地域の人から言われることが無くなった。以前は、些細な事さえ処理する方向に成っていたが、一度、後見人が入ると、周りで世話をしていた人達との縁が切れるために、良い部分も有る。
しかし、周りの話だと、色んな問題等々を、連絡しても対処してくれないとのこと・・・当然、大阪から来るわけが無いと思うが・・・
現実に、一度、成年後見人が付く、それも赤の他人で、裁判所の認定で・・・それまで関わっていた人と縁が切れる・・・・その人が死ぬまで、後見人を続ける事が出来るなら良いが・・・・後見人が続けられないとなれば・・・誰が成るのか????・・・
後見人が付くまでは、それまで生きた縁で、人との関わりが有った。それを一端、切った状態で、行政等を使って、後見人を付ける・・・その人の過去、それも口に言えない様な部分まで知っている人なら良いが、見掛けだけの付合い、後見人制度・・・当然、後見人も人で有る。間違いも起すし、嫌でも責任と義務で、対処しなければならない時も有る。此を無料でとは無理な話・・・しかし、一生面倒を看ると言う、全て後見人に連絡が有る。施設で問題を起せば、当然、連絡が入る、入っても対処できるのか、他人の後見人が言っても、施設の人が言っても、差は無いと思うが・・・責任と義務が有る後見人の言葉は重いと、本人が解るようなら、後見人の必要性は無い・・・要は、手が付けられないから、家族も看れないと成るし、面倒を看たくないから、施設に入れる、入れたが、色んな問題が家族側に連絡が入り、保護者ならと言う義務と責任で対処と言われても、聴く耳を持たない、人に如何すればと成る。結果、放棄・・・結果、成年後見人制度に成る。あかの他人が、義務と責任を対価無しで背負う・・私は無理だと思っているし、それが続く、何年先までかも解らないとなる。
当然、施設等で、問題を起し、その費用請求も受ける立場・・・管理しているお金が、国民年金だけなら、出来るか????
私は、第三者で出来る事は行っても良いと思っている。理由は、逃げられるからに成る。私は、三流で劣っている、その為に、今日は出来ても、明日は出来るかは別問題、出来ない場合も有るので、逃げると言う表現をしている。当然、時と場合で違うのが、私の様な差別主義者・・・今日は、救いたいと思っても・・・明日は、俺を救ってくれと思っている場合も有る。当然、優先順位も状況で一瞬に変わる・・・この不完璧な人間のために、限定した固定した方向性は向かないと、私自身は思ってる。
要は、人間とは多種多様に居る・・・しかし、集団として纏めたいと成れば、規格化した普通というレベルを求める。個人に此を求める事が私は差別だと思うし、強制だと思う・・・
子供も同じ、幼稚園・保育園・小学校・中学校・高校・大学と、学びの集団も色々有る。効率化を求め、少ない指導者が多くを教育する方法に成る。しかし、一対一の教育が出来れば理想だが・・・本当に出来るのか????指導者側に問題が出てくる。10歳の子を教える、当然、勝手にレベルを想像する・・・しかし、現実は千差万別、文字も読めないと言う人も居る、その様な人の担当になっても、何も感じない平等主義者なら良いが、私はは無理ですとなれば、誰が指導するのか????後見人制度と同じ事に成る。
要は、個々に人が成っている。本来、家族・家という単位で処理していた・・・その為に、国や行政はサービス程度で良かった・・・しかし、個に成って、文字も理解できない、この様な人に対して、書類を郵送するサービスの意味が有るのか????・・・
このまま続けば、国民一人に、行政サービスの人が一人付く時代になる。
その様にならないためにも、教育を行っているが、何度も書くように「生老病死」から脱する事は出来ないのが人間・・・優秀な人でも老いるし、病を患う、当然、機能不全にもなる・・・だから、それをカバーするのが本来、小さな集団、家族になる。