昨日のブログの続きに成るが・・・・後始末を考え、行った結果・・・・
直った・・・・その後は何も無い・・・
我が子の事だが・・・最近、この様な価値観を持っている人が増えているように感じる。
之が差別だと私は思うが・・・差別とは思わない人が増えているし、逆に私の様なタイプが差別主義者と言われるし、己でも自称することに成る。
何故、差別と思うのか????・・・仮に肩書等々有る人を、使った・理想したと成れば、当然の様に、感謝の思いを伝える。又は、感謝の対価を支払ったりもする。
しかし、己より目下と思う者が後始末を行った場合、当然と思っているし、若し、問題が有れば、指摘も叱る様にすることに成る。
要は、相手に対して何も思っていない・・・要は、空気の様な存在と言う事に成る。
私は、空気の様な存在を目指しているとも、過去、ブログに書いているが・・・・私はそれでも良いし、人に必要とされただけでも感謝だと考えている。
しかし、私の振舞いの思いに、教えると言う部分があるが・・その思いが伝わっていない事に、悔いが有ると言う状態に成る。
今まで、些細な事に対して、感謝の意志を示す人は、人として魅力がある人に成る人が多いと私は経験から、感じている。
この部分に対して、何も感じない、当然とそれ以上を求める人は、人として私は魅力を感じないが、何故か出世する人が多い事にも驚いている。
要は、差別心で、己に対して、引き上げて貰えると言う、肩書等がある人と、足を引っぱり、背負わなければ成らない様な人とでは、対応が違うと言う事に成るし、当然、私も対応は違う、己の足で確り立っている人は、ほっといても良いが、人様の手を必要とする人には当然、手を差し伸べることに成ると考えている。
私は差別主義者と自称しているので、人で対応を変える・・・現代は、この様な差別主義者と自称する人も少ないし、全ての人の平等に接する事が出来る人が増えていると言う事にも成る。又、この様な人に多いのが、この様なタイプは、何故か奇麗事を言う人が多い事にも驚く・・・しかし、現実に目の前に人様の手が必要と思える人が現れる事を、異常に嫌っているタイプに成っている。
この様な人は、何故か差別主義者で無いと自称する人も多い・・・
何故、感謝の思いを伝える事が出来ないのか????・・・中には弱いから頭を下げると考えている人も居るし、当然、感謝なので頭を下げる必要が出て来るが、当然、出来ないと成る。
強い・弱いに関係なく、人として当然の振舞いが何故出来ないのか????
之も、優劣論・敵味方論・強弱論が己を支配しているからだと私は考えている。