「とも」と発音するが意味が違う意味で漢字が何種類も有る。代用的には「友」「共」が有る・・・私は基本的に、ともとは同じ時を過すもの全てを「とも」と言う様に努力している。ついつい、己の好みだけの狭い価値観の判断で狭い範囲での「とも」と言う事も有るが、差別主義者の私も少しは寛大に成らないとと意識している。
共に生きるものが複数いるので、共達と言う様にしているが器が狭いので、許容できる広さが家族・親族・一族・行政区程度の広さに成る、それにプラスして仕事等の活動で縁した人たちもその中に入る。三流で劣っている差別主義者だからこの様に狭い了見成ってしまう。
何度か書いているが、同じ価値観で集まって競争するこれを「とも」と言う人も居る。仮に「友」という感じを使うなら、同じ共に近いと思うが、私の間からだと「供」と言う感じに思える。この意味は従える部下・家来と言う意味・・この上下感をハッキリさせるためにつるんでいる集団を名仲間と言っている事が多いように思う、その中の一人が大変な状況に成ったら、居なかった、無関係の人の様に装う・・・・
もし、この様な人々の集団の社会なら仲間さえ助けようとしないなら、違う価値観、知らない人、縁が薄い人等を助けようと思うのか・・・疑問がる。だから、縁が深い、血族が大事に成るが、この部分も気薄に成ってきた。
要は、普通レベルがドンドン上昇し続けて、それより劣る場合も考えて、後準備をするようにしているし、それを教えようともしない・・
病に成って行く・老いて行く・死んで行く・・・人生き様を教えようともしないし、見せようともしない・・・当然、教わっても見ても無いので・・想像も出来ない・・・現代は、綺麗事しか教えないし、それ以外は無い事の様に教えているので些細の事さえ苦痛を感じる。本人は不幸だと捉えている。己の環境が恵まれ過ぎている事に気付かず、当然・普通お思って居る。何度も書いている様に、今の環境に感謝出来なければ一生、充実した幸福感は得ないと私は思って居る。