本年も終わる・・・来年は昔から言われている、分配・・・此を真剣に考える時が来たと私は考えている。
理由は、我子の価値観、親として教えなければと、責務を持って行ってきたつもりだが、どうしても社会・周りの価値観に染まってしまっている。
勿論、少しは染まらずに居る部分も有るが・・・粗、染まったと言ってよい。
注意として耳障りの良い、言葉、話は注視し、その意味の対義語を考えた場合、平等に扱うことができるか????・・・出来なければ、己の我欲と一致している誘導・先導の危険にさらされていると教えてきたが、耳障りの良い言葉は、自然に受け入れている。
此も不思議、平等主義者と自称しているなら・・・扱い方は同じ筈。
仮に、ずいぶん前から、富の分配を同数か???・・・この問いに耳を傾けているが、何故か、結果が中々出ない・・・・理由は、苦難の分配と、大義を意識すれば、何故かが解る。
当然、平等主義者なら、苦難も平等に分配、分けなければに成ると思うが、現実は、この単語が耳に入った瞬間、耳を塞ぐが、逃げる方向に成る。対義語の富みと成ると、耳が聴こうとするし、求めル方向に向かう。
不思議だ、富み・苦難・・・何故、対応や捉え方が何故大きく違うのか????・・・・
人間の、一番の苦は「生老病死」の四苦に成るが・・・絶対に逃げ、防ぐことが出来ない、事柄は、受け入れているのか????・・・・・・・全く、知恵がない下等な動物の様に、必ず明日が永遠に続くと思っているのか???に、成る。
限られた時間の今世での営み・・・最後は、体一つであの世・・・何を求めて生きているのか????・・・・全ての唯物的物は、この世の物・・・最後は、この世に残す事に成るし、あの世に何を持って行こうとしているのか????
私は、苦も難も、今世の事、要は、全ての収支がプラマイ0に先ずは、する事を意識している。当然、マイナスの宿命を持っているかも知れない、それならプラスの言動がなければ、プラマイ0に成らない。
この考えだから、富を得たいなら、同じ位の苦難も得なければと考えている。
仮に、富は何が何でも欲しい、手に入れたい・・・苦難は何が何でも欲しくない、逃げるためには何でもする。この様な、価値観に息子達も強く染まってしまった。
可哀想で有る。何の為に、生きているのか、何をのこそすと考えているのか????当然、何も考えていないと思う。
この一極方向の価値、仮に、苦難は誰が背負うのか????この様な価値観なら、当然、己は勝ち組を目指している、結果として負組、弱い立場に、押しつけても当然と思っていることに成る。
平等主義者を装っているが、基本は、利己主義で、己以外は全て同じ、様はカスと捉えている。勿論、カスの中にも、己に富をもたらす人には忖度をして、何かを得ようとしている。
この様な、人が平等主義者と自称する、笑いたくなる。
私は、差別主義者と自称しているが、そこまで己を過保護にしていない。
優秀で一流という人は、己に厳しい人、当然、己に過保護な人で無いと言う事に成る。