2025年1月19日日曜日
少し回復!!!
よく寝た!!!
最近馴れたのか???生活環境の音が、音色に捉えられるようになってきた。以前は感情的に嫌に捉えて、雑音と捉え、騒音と耳障りの否定しにくい言葉に代えて思って居た。
人は、過している場所が有る。その芭蕉には己の好むものだけが有ると限らない・・・・好まないと抹殺する方向と、此も自然、当然なことと受入れる方向とある。
今私が居る環境は目の前の患者さんが驚く程の大きな声で叫ばれる、私には雑音と成っていたが、其れを騒音と言い変えて居た。しかし、夏のセミの声、煩い・雑音にも聞える、騒音になるが、其れも夏の風物と捉え、夏の音色と捉えると、苦痛度が大きく変わる。
音にも種類・大きさ・特徴・最後に捉え方が有るので、各自で違うはず。しかし、この音を騒音と捉え、基準で音の大きさを機械的に測定する。有るレベル以上は騒音・耳に雑音、苦痛を与えると決めつけ規制するのが、今の世の中・・・コンサートで音量を測れば、音量オーバーで人に苦痛を与える、危険・・・等々となっていく・・・現代、嫌に思う得る方向へ社会が順応しようとし過ぎている・・・・それが、人に優しい世界と思っている。
今は、管理された無風のプールで泳ぐ、これが世で生きる事だと信じ、その方向に成らないことを人権無視とも言っている。誰に優位に管理されたプールか???当然己が人権だと思って居る。私は大海の荒海を泳げる事を世を生きると捉えている。当然想定より大きな波も出てくる。其れを超えなければ、生き抜けない、其れが世だし、当然と覆って言うr。波を超え都度、辛いし・大変だが、超えたいと努力しているときが楽しいし・超えたときの充実感・感動は何より代えがたいし、有難うと感謝の念が自然に出てくる。要は苦痛にk暗射という事にも繋がる。
人を排除していく世界・人を容認・受入れていける世界に何故なら無いのか????人は、地獄に命・悪魔なのかs??