浮腫みが酷いのか???体の表皮にチクチク・ビリビリの刺激が痛みと感じている。
特に、今日は、上半身の腕も、末端の手から強く感じているし、顔も感じている・・・・
それに比べると下半身の足は、軽いが確り痛みを感じている。
何も出来なくなる、予兆に成るし、嫁も、入院する前の時の状態に近いと言い出している。
痛みは、常時なので、痛い・痛いと言い続ける事も出来ないが、体を動かそうとする都度に、キツイと言う単語が口から、出る様になっているとの事・・・この状態を超え、最終的には息も出来ない、歩くことも出来な状態に成っていたが・・・・今はその手前の様だと嫁は言っている。
私は、直ぐに己は特別と、病も成らない、克服も出来ると、思い込んでいる、要は、病は敵と言う捉え方をしてしまう。人間と言う間違いも失敗も起こす生き物が、当然、病にも成る筈なのに・・・病は有るが、俺は患う事は無いと言う考えが支配していた。三流の為に己を知らず過大評価していたことに成る。
病も確り患う身・・・治らない事も当然ある、それで生き続けなければ・・との思いが有るので、共存を目指す事に成る。
要は、病を認める、当然、敵と思えば、辛いから、仲間、友と思う様に成りたいと考えている。
病も考え様では、私の個性の一つ・・・・当然、その評価は人で変わる。
己の個性を受け入れなければ、生きれなくなる・・・受け入れて改善点を探し、対処していくことに成る。
勿論、現代の環境の中での対処に成る。昔だと不可能と思われる対処も可能になってきている。
勿論、病を克服したい、治す事での克服も有ると思うが、この状態は克服と言うより、単純に治った。
克服は、先ずは受け入れて、共に生きれる方向性を探し、可能となった場合が、克服だと私は考えている。
無いものにする事が克服でない・・・
例として、中が悪く、別れたから克服できた。この別れ等と克服・・己の趣向を押し通したと言う事で、克服と言う表現は少し違う気がする。
嫌だが、好みで無いが、共に生きる為に、受け入れ・改善点を探し、お互いの為に、進みだせた、この様な事を克服と私は思っている。
勿論、己の思い・我を殺し、抑える方向で、事柄を良い方向に向ける当然、己の好み、思い通りで無いが・・・みんなが良い方向に成るならと言う事が、克服だと考えている。
己を殺し、和を重んじる・・・個人主義と言いうより、全体主義に近い価値観に成ると思うが、
己より大事なものが有る。