通院時に、喉のパイプを取り外したので、会話が出来ない状態が続いている。此も入院時半年以上はなすことが出来なかったので、馴れているが、意思疎通が出来ないとなると、以前はイライラしていた。しかし、今は、喋れないだけ、人の手を借りないで良い、振舞を心掛けるようになり、結果として、コソ練等の運動等が減った。見守りが必用だが、頼む事に難儀する。又、ペーパークラフト等で、時間を費やしているが、此も障害が残っている手のリハビリも兼ねているし、持久力も上げたいと続け続けている。透析中も、デイケアーサービスでも無言でいるので、人々の声がよく耳に入るようになった。汚い方言で大声で話しておられる人の多さに驚く、ここに俺が居るという感じ出に聞える、同じに様なので、痴呆症が有ると思うが、為に成る話は殆ど無い、基本、勝ち負け論、何方が上で下かという話、この様な狭い価値観に日本人も成ってしまっているのかと呆然となっている。彼岸も過ぎた、昔なら親族の仏壇に、手を合わせに伺っていたが、今は我家の仏壇にも手を合わせる事が出来ない。ベットの上で、仏壇に向って、祈るだけになる。特に、気になるのが、年齢と共に、追善供養の人の名が増えていくこと、正直に書くと、長兄の叔父の従兄弟達は確りと法事等行っている。しかし、次男、等々、家から出た人達は、仏壇もないし、其れを実子にも見せていないので、当然、何を行えば良いかも解らない、解っても、費用や能力が要るなら、今の時代、知らなかったことにした方が楽である。先祖供養は当然だが、それに外れた伯父叔母の存在がある。当然、その子孫が先祖として供養を続ければ良いが、しないと成れば、誰かが行わないと、私は、従弟も三人亡くしている。その供養も続けている。良く供養しても意味が有るかとなるが、死んだら意味が無いと言う事にもなる。人は誰しも死ぬ・・・この価値観なら生きる意味も無い・・・何度も書くように人で生まれ、人で生きて、人で死ぬ・・・・・・・寂しい人生だと思う。人間として生まれ、人間として生き、人間として死ぬ・・・・・何を残せるのか???与える事が出来るのか???此に注視することだと思う。今、私は、仕事も出来ない、金欠と言うより、お金が全く稼げない状態、この状態で体も思う用意動かない、この境遇で何が出来るのかを、何時も考えている。今はペーパークラフトに集中している。特にバイク、多くの小さなパーツ等で構成されているので、作成には、今の私の体と、2ヶ月掛ると予想していたが、来週中に出来そうだ!!!デイケアサービスではそのバイクが完成に近付いているので、見学する人が増えている。恥ずかしいし、上手とも思えない、失敗だらけの作品だが、見てくれる人が居るだけで私は感謝になる。