2025年1月11日土曜日

人格や性格の形成は30代までに

 今日の透析は体重55.2からの減水になる。補正値を加えて2.8キロの減水・・・きつかった透析後ベットから起きる事が出来なかった、昨日の体の動きと全然違う・・・・・

今回の透析で向かいに入院されtlている。患者さんと同じ時間だが今日は元気が良すぎる、私の透析時間中・・・叫び・うなり・も・もだえる声を弱々出される・・・要望を聞き取ろうとすが、言われない、言う時には「暑い」「寒い」「痛い」「痒い」連打・・・看護士が何をして貰いたいのかと尋ねても返答が無い・・・さっmで有った、痛いの???寒いの???暑いのと???尋ねても次は「かーちゃん」「家族」名を大きな声で繰り返される。

少し痴呆症を発症されていると勝手に思っている。私の父に比べると、身動きが出来ない分、安心が出来る。頭が正常なときは周りとの協調性を重んじて、性格をその時々に合わせている。合わせきれない人がキレて、暴力に走る・・・・

何度か書いているが、尊敬する先輩から男として、人格者になるためには、己の性格を変える必要が有ると・・・・当然、若いときしか変わる事は出来ない、遅くても30代でに形成しないと一生その性格内示して生きる事に成る。理性で抑制できていっる間は良いが、理性が無くなる、痴呆等に成れば本性の性格が一気に表面化する・・・・仮に倫理が高く・理性を高めても、内在している気持ち・性格が傷つく・痛められたと感じで、テロ的行動緒を取る・・・・・

全て価値観で有る。白/黒・赤/青・・・この二極で無い・・・何度も書くが人は色ならグレートなる。些細な色の違いで、右左と決めつける。此も差別だと私は思う。日本には感謝の念を込めて発する言葉が多々有る、感謝と言うことは普通でない鼓腹だと言う事に成る。今の時代、コスプレ、己を見て貰いたい庇って貰いたいという方向に成っている。理由は白黒等の二極に分類されるし、否定出来にくい、耳障りの良い言葉で人を先導・誘導している、本当の目的はお金で有る。

人はグレーだし、生命だから生きる為には他の命をいただき続けている。この行為にも感謝の念で、「いただきます」「ごりそうさまでした」と感謝の敬意を示す。「御免なさい」「すみません」も同じ様な意味で使って居る。そのれにプラスして態度で頭を下げる・手を合わせる人も居る、感謝の姿だと私は捉えている。しかし、世界の常識的な価値観から言えば、間違った事・力が無いことを許して貰おうと媚びを売っていると見る傾向が有るし、今の若い人にもこの様な考え方をする人が増えている。何故、媚びを売っていると思うのか???正しく力が有る俺に取り入って貰いたい其れだけ己には力が有るというアピールに使われる、取り入って貰おうという同じ価値観の人も増え出す。ラン純な損得勘定だけだと、甘い水に全てが集まり出す。人間は虫で無いと言うプライドがなのか、畜生以下のレベル.で俺が上・お前は下と、競うと言うより、争っている。個人レベルで終るなら許せるが、その価値観でリーダーを選出している。国のトップのリーダーもこの流れに成る。要は何度も書くように民度、一人一人の哲学・価値観のUPだと思う、畜生以下は餓鬼道・・・貪欲に我欲を貪る此を良いと言う価値観に成る。勝てば官軍でん委しても良いという派そうに繋がる。

私は、人間として生きて居るし、生き続けたいと考えている、当然生きる為には多くの命の殺生も行っている。だから一瞬・一瞬が感謝と思うようにしている、結果24時間・・感謝!!!休む必要も有るので、機会がある都度感謝を祈る事に成る。

今、面白い現象が起きている。二大大国の大統領、ロシアは世界指名手配犯に成っている。アメリカの時期大統領は今回、有罪に成ったが、大統領の職務を優先するために罰を交わすことが出来た。中国のお金を有識者に特に国連等でばら撒いている。金で靡く、国家の代表も多い・・・・・人権蹂躙等を考えると罪深い人で有るが、他国の先進国。大国も同じと言うこと・・・近場だと、韓国・・・大統領が訴追・・・国民の総意で選出されたリーダー少し気に食わない・俺の好みでと、弾劾・・・・今は代と頭領の監禁・牢獄に入れる方向に国自体が大きく動いている。つい最近、大統領になったのに、何も出来ない・・・国民が求め成ったのに・・・何故脚を引っ張るのか????特にトランプ、商売人・政治家以上に、己の利に成る方向に向う・・・勿論、其れを国益だと捉えて・・・・・今、政治が混沌としているj国、トランプには良いかもと成るか、無視される国かになる。

世界の価値観はどの指掴むか????掴んだ指には尻尾を振り続ける。他の指には噛みつく吠える・・・此を求まられるし、従わなければ全ての指から除外される・・・・

勝ち取った経験を正しいと思い、其れを続けようとする・・・勝ち取る手段がタマタマ良かっただけが、続けば確信なり正氏と思い込む・・汚いと思われる、手段さえ正しいと変わっていく・・・・人の恐ろしさでも有る。仏法では、人身が乱れ続ける世が末法万年と言われている。知識が増すこと、悪い知識も増えていく・・・出来れば善の方向の知識を増やしたいと思っているし願っている。  

繋がり縁が私の財産!!!!

 手のリハビリの為に朝一からブログUPを行っている。昨晩、忙しい主医の先生が来られ、私が杖を使ってでも歩行できた事の確認に・・・・・感謝になる。此が出来たのも祖父のお陰と思っている。私の祖父は明治生まれ、私の父を授かったのが祖父が45歳前後・・・実子も養子も含め多くの子を育てられている、その中の一番末っ子が私の父になる。祖父が言っていた苦痛や逆境が有ることを喜べ、感じると言うことは生きて居る証拠だし感謝セロと・・・・・私も今まで生きてきて、特に病に成ってから理解できるようになた。

今の医療制度・・・患者側の様態の変化が無いと、三ヶ月ルールで出される。その為に医療機関は当然、治そう度努力する、しかし、患者が病人コスプレ状態・・・改善には向い難い・・・・特に性格・個性が原因での病・・・病の元の心が大きく関係してくる。祖父が今の私の年齢位に、私という初孫と縁をされている小さい頃は略、祖父と共に過していた、寝るときも祖父の布団の中・・・父母は生活の為に時間無視で仕事・・・祖父が冷やかな目で見ていた理由も後で解ることに成る。

祖父は己の人生で恩有る地、縁ある地へ私を伴い見せてくれた。行く処処に泊まれる民家、知合いが居たし、凄い接待を受けた記憶が有る。祖父を通称名、あだ名で善幸サンと言われていた。以前も書いているが、祖父は一時期、大成長・富豪に成られている。此も縁・・・父は私に「祖父母の悪口・・・村で一番の貧乏人」だったと言う、しかし、村にあるお宮の賽銭箱等には、祖父母と曾祖父の名が刻まれているし、納骨堂等の寄贈の石塔には遠くにする、父の親族の名が刻まれている。

要は父の捉えたの問題、地域の人に聞くと、一番良い学生服等々を着せてあったが悪ガキなので、直ぐに破る、祖母はお嬢様育ちで上学校出・・家事等が苦手でだが頭を優れていたとのこと、近付きにくい雰囲気だったとのこと・・・考えれば孫みたいなさ年齢の差、私も孫には子以上に甘い・・・しかし、昭和14年生まれの父・・・・・小学校に入るまでは想像も出来ない暮らしをしている、この暮らしから大きく変わる、当然、貧乏で情けないと思うのも仕方が無いと思う。

父方の親族の私や父への対応に、疑問を持ったので父に尋ねても解らないし当然と思っている。親族に聞く事に成る。機会がある都度少し・少しと情報を集めた・・・祖父の兄弟は多く・・・又親族も多い・・・狭い地元の田んぼを分け与えても限界が有るし、一歩間違えば親族間での争いになる。その為に明治初期に自由に移動できる住める世界に成り・・・祖父の叔父達が南九州で商売をされ、大成されていた。その叔父を頼り、商売の道に祖父は入られ・・気に入られたのか????従妹に当たり叔父の長女と結婚されているし、持参金として地元、柳川の新築の家と田畑を貰う事に成っていたとのこと要は地元の跡取りという考えらしい・・・

祖父も一人前の商売人なり、宮崎県油津の 手のリハビリの為に朝一からブログUPを行っている。昨晩、忙しい主医の先生が来られ、私が杖を使ってでも歩行できた事の確認に・・・・・感謝になる。此が出来たのも祖父のお陰と思っている。私の祖父は明治生まれ、私の父を授かったのが祖父が45歳前後・・・実子も養子も含め多くの子を育てられている、その中の一番末っ子が私の父になる。祖父が言っていた苦痛や逆境が有ることを喜べ、感じると言うことは生きて居る証拠だし感謝セロと・・・・・私も今まで生きてきて、特に病に成ってから理解できるようになた。


今の医療制度・・・患者側の様態の変化が無いと、三ヶ月ルールで出される。その為に医療機関は当然、治そう度努力する、しかし、患者が病人コスプレ状態・・・改善には向い難い・・・・特に性格・個性が原因での病・・・病の元の心が大きく関係してくる。祖父が今の私の年齢位に、私という初孫と縁をされている小さい頃は略、祖父と共に過していた、寝るときも祖父の布団の中・・・父母は生活の為に時間無視で仕事・・・祖父が冷やかな目で見ていた理由も後で解ることに成る。


祖父は己の人生で恩有る地、縁ある地へ私を伴い見せてくれた。行く処処に泊まれる民家、知合いが居たし、凄い接待を受けた記憶が有る。祖父を通称名、あだ名で善幸サンと言われていた。以前も書いているが、祖父は一時期、大成長・富豪に成られている。此も縁・・・父は私に「祖父母の悪口・・・村で一番の貧乏人」だったと言う、しかし、村にあるお宮の賽銭箱等には、祖父母と曾祖父の名が刻まれているし、納骨堂等の寄贈の石塔には遠くにする、父の親族の名が刻まれている。


要は父の捉えたの問題、地域の人に聞くと、一番良い学生服等々を着せてあったが悪ガキなので、直ぐに破る、祖母はお嬢様育ちで上学校出・・家事等が苦手でだが頭を優れていたとのこと、近付きにくい雰囲気だったとのこと・・・考えれば孫みたいなさ年齢の差、私も孫には子以上に甘い・・・しかし、昭和14年生まれの父・・・・・小学校に入るまでは想像も出来ない暮らしをしている、この暮らしから大きく変わる、当然、貧乏で情けないと思うのも仕方が無いと思う。


父方の親族の私や父への対応に、疑問を持ったので父に尋ねても解らないし当然と思っている。親族に聞く事に成る。機会がある都度少し・少しと情報を集めた・・・祖父の兄弟は多く・・・又親族も多い・・・狭い地元の田んぼを分け与えても限界が有るし、一歩間違えば親族間での争いになる。その為に明治初期に自由に移動できる住める世界に成り・・・祖父の叔父達が南九州で商売をされ、大成されていた。その叔父を頼り、商売の道に祖父は入られ・・気に入られたのか????従妹に当たり叔父の長女と結婚されているし、持参金として地元、柳川の新築の家と田畑を貰う事に成っていたとのこと要は地元の跡取りという考えらしい・・・

祖父も一人前の商売人なり、宮崎県油津の飫肥町の中瓶曲の直ぐ近所で、道を挟んだ目の前には父と同じ位の子供が居る、書店が有ったとの事、筑後屋と言う雑貨商をされていたようだ・・・・時は、戦争の時代・・・物資が足らない・・・・・色んな一羽今で言うボランティア精神で、国に尽くす・・・祖父は己の分と思い、山を手に入れ、整地して・・・・分場の育成に取り組まれていた。国への貢献になる。此が意味することは国有っての話し、日本国は負け敗戦国へ・・・同時くらいに27歳の長男の戦死・・・ 父は兄嫁に育てられ可愛がられたとのこと・・しかし事態が変わると、祖父が行っていた戦争協力が犯罪と言われるように成る、長男も戦死・・・祖父自身も投獄の恐れがある・・・長男嫁と末っ子の私の父が居る・・・・店を手放されて祖母の里の熊本は芦北に身を寄せることになる。此処で父は小学校に入学している。この地の山を幾つよか持っていた祖父・・・此処での生活を考えていたと思うが、又、社会の情勢が大きく変わる・・・・農地解放令で有る。昭和21年から25年に掛けて行われた。戦時中はお金の価値が大きく変わる、蓄財は土地だった。祖父も仕事のエリア的に、宮崎県・鹿児島・熊本県と田畑・土地を手に入れていたようだし、私の記憶だと、和泉の鶴が飛来する田畑を見せ・・・・祖父が俺の土地だったと言っていたのを思い出す。この時代は、その地域で大富豪と言われた家の身を寄せて生活している、数年間・・・父は天国以上の生活をしている、終戦直後の時代に、モーターボートで遊び回る等々、父の親族から信じられない事を耳にしている。此処まで祖父が生き残ったのも奇跡だと思う、全盛期の頃・・・昭和の初期だと思うが、胃がんを患い、治療はその当時は切開して胃を全摘・・・この処置が出来るのは九州では九大病院だけ・・・・この治療をされたので、父が居るし、私が生まれたと言うことになる。当時の治療費は家数件分と聞いている。捻出できたことに驚く・・・・・

父が小学校二年生頃に、農地解放で故郷の先祖の土地が取られると言うことで、祖父が直系の子孫・・・・柳川の地に戻るが時既に遅し・・・・・兄弟で商いに向かない弟に任せていたが、動乱の時期、弟嫁の姉弟達が、嫁里の叔父から頂いている家屋を占拠ているし、義父から後を頼むと言われ事に対して。国に対して裁判まで起している、当然費用も要る、その費用は芦北に残した山林を売って賄っている。勿論負けで有る。この土地の件は、伯父嫁の死後、戸籍に関する問い合わせが有ったので、調べたら、祖母はその土地で産まれたこなってる・・・・この土地を土地戻したい(私も思うし責務と感じる・・・その後はこの時代、動乱といってより、知らん振りも出来るが・・長男の戦死の真実を知るために南方からの引き揚げ船が来る情報を得ると、長男の嫁と共に、引き揚げ者に聞く回っていたとのこと・・ニューギニア戦線での戦死、死の行軍と言われる、兵站が供給されず・・・餓えと山遺伝句成った軍人が多い戦場、伯父の最後h知らないが、死の確証が出来たのか・・・祖父は、長男若嫁を嫁里に戻す事にされたようだ、此処で疑問があの時代、祖母が四〇差愛を超えた年齢で出産できるのか???又。父の上の兄姉達は、過去帳を見ると、生まれて直ぐや・幼くして死んでいる。高齢の母親から生まれた父だけが実子として生き残っている。あの時代、祖母は父にチャン付けで呼んでいたとのこと・・・

此で一息付くかと思っていたと思うが、満州で裁判官に嫁いだ姪が、引き上げて飯塚で生活を再開、しかし夫が結核で他界・・・肩書が無くなると、人様の対応も変わる、特に感染病の結核での死亡・・・出て行けという方向に成るのはその時代なら当然なる。手紙での連絡をされていたと思うし、その子供さんに最近、この部分の歴史を聞いた、父が亡くなり世間の風が痛いし厳しい・耐えきれず、三人の子に母が此処で死のうと言われたの事、余程の仕打ちだったと言うことに成る。

祖父は、生きる素手を考え、飯塚まで車力・・リアカーを引っ張って迎えに行かれ、数度、往復して家財道具を地元の柳川に持ち込む、勿論祖父の家になる。その後、直ぐに市営住宅への入居案内が有るが、その当時は母親と娘の言う組み合わせが一番確率が高いので、姪が確りした仕事を見つけるまで二人の息子達は我家で過し、学校に行っていたとのこと

血縁では遠いが、何故か上座に案内される理由は先祖の言動の影響だと思う、己にこの様な力ない・・・歴史文化に刻まれる、見えないが尊い事だと思う。