手のリハビリの為に朝一からブログUPを行っている。昨晩、忙しい主医の先生が来られ、私が杖を使ってでも歩行できた事の確認に・・・・・感謝になる。此が出来たのも祖父のお陰と思っている。私の祖父は明治生まれ、私の父を授かったのが祖父が45歳前後・・・実子も養子も含め多くの子を育てられている、その中の一番末っ子が私の父になる。祖父が言っていた苦痛や逆境が有ることを喜べ、感じると言うことは生きて居る証拠だし感謝セロと・・・・・私も今まで生きてきて、特に病に成ってから理解できるようになた。
今の医療制度・・・患者側の様態の変化が無いと、三ヶ月ルールで出される。その為に医療機関は当然、治そう度努力する、しかし、患者が病人コスプレ状態・・・改善には向い難い・・・・特に性格・個性が原因での病・・・病の元の心が大きく関係してくる。祖父が今の私の年齢位に、私という初孫と縁をされている小さい頃は略、祖父と共に過していた、寝るときも祖父の布団の中・・・父母は生活の為に時間無視で仕事・・・祖父が冷やかな目で見ていた理由も後で解ることに成る。
祖父は己の人生で恩有る地、縁ある地へ私を伴い見せてくれた。行く処処に泊まれる民家、知合いが居たし、凄い接待を受けた記憶が有る。祖父を通称名、あだ名で善幸サンと言われていた。以前も書いているが、祖父は一時期、大成長・富豪に成られている。此も縁・・・父は私に「祖父母の悪口・・・村で一番の貧乏人」だったと言う、しかし、村にあるお宮の賽銭箱等には、祖父母と曾祖父の名が刻まれているし、納骨堂等の寄贈の石塔には遠くにする、父の親族の名が刻まれている。
要は父の捉えたの問題、地域の人に聞くと、一番良い学生服等々を着せてあったが悪ガキなので、直ぐに破る、祖母はお嬢様育ちで上学校出・・家事等が苦手でだが頭を優れていたとのこと、近付きにくい雰囲気だったとのこと・・・考えれば孫みたいなさ年齢の差、私も孫には子以上に甘い・・・しかし、昭和14年生まれの父・・・・・小学校に入るまでは想像も出来ない暮らしをしている、この暮らしから大きく変わる、当然、貧乏で情けないと思うのも仕方が無いと思う。
父方の親族の私や父への対応に、疑問を持ったので父に尋ねても解らないし当然と思っている。親族に聞く事に成る。機会がある都度少し・少しと情報を集めた・・・祖父の兄弟は多く・・・又親族も多い・・・狭い地元の田んぼを分け与えても限界が有るし、一歩間違えば親族間での争いになる。その為に明治初期に自由に移動できる住める世界に成り・・・祖父の叔父達が南九州で商売をされ、大成されていた。その叔父を頼り、商売の道に祖父は入られ・・気に入られたのか????従妹に当たり叔父の長女と結婚されているし、持参金として地元、柳川の新築の家と田畑を貰う事に成っていたとのこと要は地元の跡取りという考えらしい・・・
祖父も一人前の商売人なり、宮崎県油津の 手のリハビリの為に朝一からブログUPを行っている。昨晩、忙しい主医の先生が来られ、私が杖を使ってでも歩行できた事の確認に・・・・・感謝になる。此が出来たのも祖父のお陰と思っている。私の祖父は明治生まれ、私の父を授かったのが祖父が45歳前後・・・実子も養子も含め多くの子を育てられている、その中の一番末っ子が私の父になる。祖父が言っていた苦痛や逆境が有ることを喜べ、感じると言うことは生きて居る証拠だし感謝セロと・・・・・私も今まで生きてきて、特に病に成ってから理解できるようになた。
今の医療制度・・・患者側の様態の変化が無いと、三ヶ月ルールで出される。その為に医療機関は当然、治そう度努力する、しかし、患者が病人コスプレ状態・・・改善には向い難い・・・・特に性格・個性が原因での病・・・病の元の心が大きく関係してくる。祖父が今の私の年齢位に、私という初孫と縁をされている小さい頃は略、祖父と共に過していた、寝るときも祖父の布団の中・・・父母は生活の為に時間無視で仕事・・・祖父が冷やかな目で見ていた理由も後で解ることに成る。
祖父は己の人生で恩有る地、縁ある地へ私を伴い見せてくれた。行く処処に泊まれる民家、知合いが居たし、凄い接待を受けた記憶が有る。祖父を通称名、あだ名で善幸サンと言われていた。以前も書いているが、祖父は一時期、大成長・富豪に成られている。此も縁・・・父は私に「祖父母の悪口・・・村で一番の貧乏人」だったと言う、しかし、村にあるお宮の賽銭箱等には、祖父母と曾祖父の名が刻まれているし、納骨堂等の寄贈の石塔には遠くにする、父の親族の名が刻まれている。
要は父の捉えたの問題、地域の人に聞くと、一番良い学生服等々を着せてあったが悪ガキなので、直ぐに破る、祖母はお嬢様育ちで上学校出・・家事等が苦手でだが頭を優れていたとのこと、近付きにくい雰囲気だったとのこと・・・考えれば孫みたいなさ年齢の差、私も孫には子以上に甘い・・・しかし、昭和14年生まれの父・・・・・小学校に入るまでは想像も出来ない暮らしをしている、この暮らしから大きく変わる、当然、貧乏で情けないと思うのも仕方が無いと思う。
父方の親族の私や父への対応に、疑問を持ったので父に尋ねても解らないし当然と思っている。親族に聞く事に成る。機会がある都度少し・少しと情報を集めた・・・祖父の兄弟は多く・・・又親族も多い・・・狭い地元の田んぼを分け与えても限界が有るし、一歩間違えば親族間での争いになる。その為に明治初期に自由に移動できる住める世界に成り・・・祖父の叔父達が南九州で商売をされ、大成されていた。その叔父を頼り、商売の道に祖父は入られ・・気に入られたのか????従妹に当たり叔父の長女と結婚されているし、持参金として地元、柳川の新築の家と田畑を貰う事に成っていたとのこと要は地元の跡取りという考えらしい・・・
祖父も一人前の商売人なり、宮崎県油津の飫肥町の中瓶曲の直ぐ近所で、道を挟んだ目の前には父と同じ位の子供が居る、書店が有ったとの事、筑後屋と言う雑貨商をされていたようだ・・・・時は、戦争の時代・・・物資が足らない・・・・・色んな一羽今で言うボランティア精神で、国に尽くす・・・祖父は己の分と思い、山を手に入れ、整地して・・・・分場の育成に取り組まれていた。国への貢献になる。此が意味することは国有っての話し、日本国は負け敗戦国へ・・・同時くらいに27歳の長男の戦死・・・ 父は兄嫁に育てられ可愛がられたとのこと・・しかし事態が変わると、祖父が行っていた戦争協力が犯罪と言われるように成る、長男も戦死・・・祖父自身も投獄の恐れがある・・・長男嫁と末っ子の私の父が居る・・・・店を手放されて祖母の里の熊本は芦北に身を寄せることになる。此処で父は小学校に入学している。この地の山を幾つよか持っていた祖父・・・此処での生活を考えていたと思うが、又、社会の情勢が大きく変わる・・・・農地解放令で有る。昭和21年から25年に掛けて行われた。戦時中はお金の価値が大きく変わる、蓄財は土地だった。祖父も仕事のエリア的に、宮崎県・鹿児島・熊本県と田畑・土地を手に入れていたようだし、私の記憶だと、和泉の鶴が飛来する田畑を見せ・・・・祖父が俺の土地だったと言っていたのを思い出す。この時代は、その地域で大富豪と言われた家の身を寄せて生活している、数年間・・・父は天国以上の生活をしている、終戦直後の時代に、モーターボートで遊び回る等々、父の親族から信じられない事を耳にしている。此処まで祖父が生き残ったのも奇跡だと思う、全盛期の頃・・・昭和の初期だと思うが、胃がんを患い、治療はその当時は切開して胃を全摘・・・この処置が出来るのは九州では九大病院だけ・・・・この治療をされたので、父が居るし、私が生まれたと言うことになる。当時の治療費は家数件分と聞いている。捻出できたことに驚く・・・・・
父が小学校二年生頃に、農地解放で故郷の先祖の土地が取られると言うことで、祖父が直系の子孫・・・・柳川の地に戻るが時既に遅し・・・・・兄弟で商いに向かない弟に任せていたが、動乱の時期、弟嫁の姉弟達が、嫁里の叔父から頂いている家屋を占拠ているし、義父から後を頼むと言われ事に対して。国に対して裁判まで起している、当然費用も要る、その費用は芦北に残した山林を売って賄っている。勿論負けで有る。この土地の件は、伯父嫁の死後、戸籍に関する問い合わせが有ったので、調べたら、祖母はその土地で産まれたこなってる・・・・この土地を土地戻したい(私も思うし責務と感じる・・・その後はこの時代、動乱といってより、知らん振りも出来るが・・長男の戦死の真実を知るために南方からの引き揚げ船が来る情報を得ると、長男の嫁と共に、引き揚げ者に聞く回っていたとのこと・・ニューギニア戦線での戦死、死の行軍と言われる、兵站が供給されず・・・餓えと山遺伝句成った軍人が多い戦場、伯父の最後h知らないが、死の確証が出来たのか・・・祖父は、長男若嫁を嫁里に戻す事にされたようだ、此処で疑問があの時代、祖母が四〇差愛を超えた年齢で出産できるのか???又。父の上の兄姉達は、過去帳を見ると、生まれて直ぐや・幼くして死んでいる。高齢の母親から生まれた父だけが実子として生き残っている。あの時代、祖母は父にチャン付けで呼んでいたとのこと・・・
此で一息付くかと思っていたと思うが、満州で裁判官に嫁いだ姪が、引き上げて飯塚で生活を再開、しかし夫が結核で他界・・・肩書が無くなると、人様の対応も変わる、特に感染病の結核での死亡・・・出て行けという方向に成るのはその時代なら当然なる。手紙での連絡をされていたと思うし、その子供さんに最近、この部分の歴史を聞いた、父が亡くなり世間の風が痛いし厳しい・耐えきれず、三人の子に母が此処で死のうと言われたの事、余程の仕打ちだったと言うことに成る。
祖父は、生きる素手を考え、飯塚まで車力・・リアカーを引っ張って迎えに行かれ、数度、往復して家財道具を地元の柳川に持ち込む、勿論祖父の家になる。その後、直ぐに市営住宅への入居案内が有るが、その当時は母親と娘の言う組み合わせが一番確率が高いので、姪が確りした仕事を見つけるまで二人の息子達は我家で過し、学校に行っていたとのこと
血縁では遠いが、何故か上座に案内される理由は先祖の言動の影響だと思う、己にこの様な力ない・・・歴史文化に刻まれる、見えないが尊い事だと思う。
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