一神教世界は、主を神と言っている場合が多い・・・・
仏教は、仏とは????と問い続ける法である・・・逆説で人とはと成る・・・
しかし、偶像がした方が、人の心を掴み易いと、偶像化を始めたために、仏がものに成り、神との違いが判らなくなっている。
私は、少なくとも親の気持ちは解るつもりである。
親を子に対して、何を望み・何を期待しているか????・・・・子が思う通りに成る為に、無い脛を齧らせ続ける事を望んでいるか????・・・・私は親だが望んでいない・・・
親として、子には、人様の為に成る様な人になってほしいと、最低な部分だが思っているし、それを願いに成っている。
若し、神・仏と死う存在が居るとして、何を望んでいるのか????・・・この様に考える時が有る。
分を超える、欲を叶えて欲しいと、縋って来た・・・私は親だが、足蹴に追い出すと思う・・・理由は己の分を知れと言う思いが私には有るからに成る。
当然、私の力、力量とのバランスに成るが・・・・若し、個人が持つ、全ての欲を叶える、神・主・親と成れば、当然、凄い力が必要に成る。
若し、地震が起き、無い世界を神に願った・・・当然、叶えられる力量を神が持っていると言う事に成る。地球さえも造れ・逆に壊せる力が有ると言う事にもなる。
私は、周りを見ていると、殆どの悩みが、本当は心に要因しているが・・・原因と問うと、物質世界の、周り・環境と言い出す人が多い・・・・
物質・唯物的世界は、当然、形有るものしか、操作が出来ない・・・
仮に、お腹が減った・・何か食べたいと思った・・・ここ迄は心の部分が多い、しかし、思っていても食材が目の前に現れない・・・若し、神に願って、又、仏に願って、目の前に神が・仏が食材を提供する事が出来るか????・・・私は出来ないと思う。
要は、物質世界の中で、物を動かす等々は、物質として存在する物が介在しなければ成らないと言う事に成る。
仮に、親と子の関係で・・・親は子の能力を、よく理解していると思う・・・その能力を超える事を、目指すこの部分までは解る・・・しかし、それが出来ないからと、親に縋ると成れば、少し話が変わる・・・勿論、子は、親は完璧な力を有していると思い込んでいるので、親の分を超える事さえ縋れば・・・それを容認できるか????
しかし、現実的には、子は親の事もよく理解しているので、不可能と言う部分までの要求・縋り方はしないと思うが・・・・・・
若し、他人の親は、力が有り、色んな人の欲を叶えてくれると教えられれば、己の親に縋るより、他人の親に縋る事にもなる。
しかし、不思議な現象が起きる、力が有ると噂の親・・・しかし、何も唯物的に動かない・・・しかし、欲を叶えたいと子が努力する・・・結果、欲が叶えられたと成ると・・・何もしていない親に力が有った・正しかったと成るのが、人間社会の中にある。
仮に、宝くじを買う・・・確率は決まっているので、当たる人の人数も決まっている。
当然、その外れる人は、数え切れない数に成る。
しかし、ここに願いをすれば、当たると成る・・・宝くじを買った、全ての人が願いに来たら・・・当然、当たりの人が居ると言う事に成る。
現実に当たった人が居ると成れば、益々、願いをしに来る人が増えると言う図式に成る。
人の扇動・誘導は簡単という事にもなる。
要は、願う、縋る・・本来、人に成る・・・その人とは、親に成るのが、生物としては普通と私は考えている。
しかし、親にも限界が有る・・・それを超える欲は????・・・本来は、己の努力しかない・・・しかし、親が悪い、力がないと、卑下する事に成る・・・この方向に捉えると、結果的に、力の有る親を探そうとしだすと言う事にもなる。
親も人間である、その為に、完璧でない・・・失敗も間違いも起こす・・・之が私は普通と考えている。しかし、子から見れば、親は完璧で有って欲しいと思っている・・・この思いが結果的に、先に書いた卑下する方向に向かうなら・・・親、子に見栄を張る必要性も無いと考えている。
要は、この様な子育て期間中に得た、経験・知恵が、結果的に社会人に成った時に、影響しだす。
上は完璧であるべき等々、己の親さえ完璧でないと言う事を知っているが、それは極一部の私の場合で、殆どの人は完璧な親から育てられていると思っている人も居る。
私は全ての親が、人間と思っている、人間は間違いも失敗もする・・・完璧な親など存在しないと思っている。
当然、それ以上に超が付く完璧は、神的存在が居る等々、勿論、唯物的に物質で居るとは思っていない。
人は、不思議に、関わった人に対して、過大な期待を持つ習性が有る。
その為に、小さな施し等々に気付かない・・・仮に親は産んだ後、私は捨てたと言っても、生んだ親が居るから、今の己が有ると言う事・・・生んで貰ったと言う部分に感謝が出来るはず。
しかし、何故か出来ない・・・それは己が不幸と己自身を思っているからだと思う。
何故、不幸なのか???・その為の理屈は多々言える・・・しかし、逆に、今、何故、幸せなのか???と成ると、理屈を言えないからに成る。
要は、多々の事柄に対しての、損の理屈を考えるより・・・得の理屈を考えた方が、幸せと言う事に成る。
釈迦とは、これを人に諭していた人に成る・・・・この振舞いが、菩薩でも有るし、それで幸せを感じた人は、仏の意味が解ったと言う事にもなる。
環境や状況と言う物は、己ではコントロールが付かない、仮に地獄と言われる世界に生まれた、地獄を環境を一気に変える事は出来ない・・・しかし、環境や状況はどうであれ、己は何を感じたかが、大事だと言う事に成る。
人を扇動・誘導する事の容易さは、人は、事柄に対しての、損を感じやすい、その為に損しない・損したくないと言う思いが強い、この部分を誘導する事がたけている人が、現代は優秀や一流と言われている。
仮に、この指にとまれと・・・二人が、指を出す。一人は、不可能を可能にする。どんな問題も解決できると叫びながら・・一人は、逆に、負を背負う事が出来る。背負う楽しさを味合う事が出来ると叫びながら・・・・
どっちの人に人は向かうのか?????
一人は、具体性が無い・・・得する・利に成る様に勝手に思い込み、その人に近付く・・・
後の一人は、損する・キツイ事、誰がする。とうとう思われて、逆に避けられると私は考えている。
しかし、現実的である。キツイ・損すると思える事を、楽しめると言う事に成る・・・何か、己が知らない、価値観が有るかもしれないと成ると思うが、それが無いのが、現代に成る。
若し、信仰者なら、神や仏を信じていると思う、神や仏は何を望んでいるのか????
要は、親は何を子に望んでいるのか???・・・之と同じと私は考えている。
求めると言う思いが、何かして貰えると言う方向に成っている。