人は不思議で有る・・・耳障りの良い言葉と、悪い言葉が各自の価値観で変わる。
理想論等々も、到底無理と思えるものは簡単に言えるし、当然同じ価値観を持っている人しか居なければ、元より理想だから無理だと、聞いている。
この無理と感じる事は、逆に人は簡単に口にできると言う事・・・・誰も信じて居ないし、その場しのぎと理解している事に成る。
仮に、走りが遅い人が、絶対に今度は一等賞と言っても、誰も期待しないし、誰も信じて居ないので、この事で、嘘を言ったと言われる事は無い、この表現は、出来ない夢だと捉えている。
しかし、仮に、最後尾から二番目を、今回の目標と言った場合・・・・誰も信じないか????
若し、信じる人が居るなら、その人に対して、裏切った事に成るし、嘘を言った事に成る。
出来そうもない、事を言う事は、理想と言うより、見栄、どうせ出来ない、等々が頭に過る為に、耳に入り方は良い事に成るし、逆に言う事も楽に成る。
仮に、私がブログによく書く、利己主義・・・・この反対語は利他主義と一般的には成る。出来そうもないので、耳に痛みを感じない・・・又、誰しも期待しないので、口に出す事も簡単に成る。
しかし、利己・・・この言葉は、利と己で構成されている。
この己を他とする事と同じで、己はそのままに、利を、負と置き換えると成る・・・・
負己主義と言う事に成る。
社会には利は少ない、誰しもが求めているので、当然、利は残っていない。しかし、負は、誰しもが負から逃げようとする人が多いので、社会には多々あるし、現実は負しか残っていないと言う世界が現代に成る。
負を得る事が難しくなく、簡単だと言う事・・・・何もしなければ、結果的に負を背負う方向に成るのが現代と言う事に成る。
先に書いた様に、反対語で、利己主義の反対が、仮に、負己主義とすると、当然、簡単に直ぐに背負う事が出来る現実が有る。この言葉を聞けば、直ぐにイメージできる、周りで困っている人の顔が浮かぶ・・・・
その問題を共に解決・背負う事が出来るか????出来ないし、若し言えば、当然、誰しもが期待するし、出来ないと直ぐに、出来ない事を言ってと、非難される。
若干だが意味が違うが、利他主義と負己主義・・・同意語と私は考えている。
この部分も一神教の価値観が、入って来ているので、利益が出た場合は、他人に少し施しをと言う意味に捉える人が居る。
先ずは、自分が十分な利に浸り、溢れた部分は他人と言う考えに成る。この考えなら、利他主義等々簡単に言える。何故出来ないのか???と問われても、現状では、まだ自分が満たされていない為と、言える。
何時、満たされたと感じるか、永遠に無いだろうと成る。
利に対する人間の慾は、無限に深い・・・・・
負己主義なら・・・間の前に落ちている負を背負うだけで簡単だが、当然、自分の利等得る事が出来ない。この損と言う価値観が、結果的に多々落ちている負を気付かない方向に意識を向けている。
利は、追わなければ逃げる・・・しかし、負は、負の方から追って来るし、足を掴もうとする。
この様な特性が有るので、負を背負うと成ると簡単に背負えると言う事、それに耐えれるかが問題に成る。
有りえない・誰しもと言う、事を言う人も多い、しかし、日本国は自由主義陣営に成っている・・・各自の価値観に即して生きれる世界と言う事
他からの・強制・束縛・受けない、自己の思い、哲学・価値観で生きれる世界に成るが・・・自由も、この一つの束縛の中に有ると言う考えが、民主義国家に成り難い、本質に有る。
色んな価値観が有る、之を前提に考える、当然、その違いを知る・又、容認できるような人間力が問われると言う事に成る。
しかし、この哲学的部分でも問題が出て来る・・・全ての人が、言って・見せて・させて・解るか・・・何度しても解らない人も厳然と要る。
この事は、何度も努力をして、相手の成長を考えたが、出来ない人が居ると言う事、之を、常識外と言うなら、その常識の許容力が無いと言う事・・・
しかし、如何すればと成る。全ての策を尽くしたが???・・・・此処からが命の次元に成って行く、之を、哲学者が言っている、哲学を越えた部分だと私は考えている。
今世紀はこの部分に光が当たると私は考えている。
誰が決めたか解らない、常識を誰しもが信じている。この事は、一つの決まった価値観の中で生きる人が、一般人と言う事に成る。之は自由主義か????・・・・民主主義か???・・・
結局は、利を与えてくれる、大樹の陰に入る、之が正しいと成れば、負の人達を、覆う寛容さ等の人は出てこない・・・・
自由で無く・・・力加減、その力も理に関する事・・・その力が有る事が勝ちと成る。
若し、利を与えてくれる、大樹と思っているが、その大樹は、陰に入った人達の、血と汗を吸って大きく目立って居たら・・・・怖い、独裁的、環境集団と言う事にも成る。
よく昔は、お天道様が見ていると、言う戒めが有った。
お天道様は何を見ているか????何を評価しているか????
楽して、利を得るこの生き方が良いと評価しているか???・・・・・・・
若し、死後、閻魔大王の前に言った時に・・・どう裁かれるか???・・・・
行動以上の対価を頂く、之を幸せと言うなら・・・・行動以下の対価しか頂けない人を創っている。
私は、この様な事で幸だとは考えていない、単純に、対価の利を多く得た位・・・・
多く頂いた事で、幸や幸福を感じているなら、当然、奉仕も出来る、之が出来ないと言う事は、当然の対価だと思っている。
この当然が、もっと対価が欲しいと言う方向に向かう・・・
その対価、利をどう使うかがその人の価値観に成るが・・・この発想で行けば、一流・優秀な人がする事で、庶民は何もしないで良いという価値観に成る。
私は同じ価値観で、単に運が良かった程度・・・庶民と価値観と一緒と思っている。
しかし、自由の国・アメリカも一極に集中させる、方向性へ向かっている。
価値観の多様化を逆進しだした・・・・・特に、一神教の天地を創る目的のアメリカ最初から矛盾を孕んでいる。
色々な人が居る、その事は色んな神も居ると言う事に成る。
神は正義・力が有ると言うなら、目の前で溺れている子を、泳げない私が助けなくても良い・・・しかし、前後の見境なく、飛び込むのが、無知でバカな庶民だと思う・・・・
救うに値しない等々の、判断が付く、立場なら良いが・・・・私はそのレベルも無いので、悪人でさえ、飛び込むと思う・・・・之を本当にバカと言うなら、私はバカが多い世界が居心地が良いと思う・・・・
しかし、悪人と解る、神の力が有っても、一時の懺悔をすれば、救うと成れば・・・その後の行動は当然、善人として二成るが・・・悪人のままなら、庶民と同じである。
結局は、人間の本質の、益々の探求が求められる時代に成っている。
この部分が、何を持って、幸福と言うのか????之を、確り、探求する事だと思う。
生きている、これ自体が幸福だし、感謝と思える様にな成れば、必然的に感謝のお返しが出来る。
生きる事が苦痛なら・・・・悔いと恨みしか残らない・・・・
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