私は、相互扶助が大事だし、これが基本に有るから、手を貸す、援助が出来ると考えている。
しかし、この相互扶助の己が手を貸す番が来る事が嫌なので、相互扶助は綺麗ごとで、誰も考えもしていないと、要は他と同じで己もその様な価値観と言う人も居る。
当然、この様な考えなら、援助等求めもしないし・・・己の力・確固たる永遠たる自立を目指すが・・・この部分が無く・・すべて他力本願・結果、問題や負の部分は他の責任・利や得の部分は己の成果と言う、捉え方をする人も出て来る。大陸的・一神教的価値観に成る。
この様な価値観だから、先のブログで、個人の意味を道徳的に教える必要が有り・・結果的に道徳が宗教と言う方向性に成ってしまった。ムチと飴で人を誘導する・・・要は、幼子の躾に近い・・・
同じ事で、子は依存している、己だけでは生きれない、結果、援助を求めている。幼い頃は、宿主の喜ぶ・言う通りに振る舞う、子の言動で、援助をしてもらえる・・・最初は満足している。
しかし、宿主側も都合が有る・・・・宿主が喜ぶ・言う事を振る舞う程度では、援助してもらえない時も出て来る。冷静に降る前は、無かったことに成る。この時に、駄々をこねる・・これも第三者の目が有る中で・・・宿主が恥ずかしい等々の思いで、援助の財布が緩む場合が有る。
又、中学校位のレベルに成れば・・・親を悪く言えば脅迫した方が、援助が貰える可能性が高い事に気付く・・・勿論、親の財布の中を知っている子・・・脅迫しても落ちる金が無いと成れば、当然、親以外にこの方法でたかり出す・・・本に立は、援助と思てるが、実際は犯罪に成る。
私は、情が強くあると言われるが・・・先輩からは情に弱い部分が有るから、付け入る人が多く居るとも言われている。
結果、先に書いた犯罪と思える事も、援助と捉えてしまう部分が有る。
私はボランティア等々で、募金活動もしたことが有るし、募金に対して、若い時は、出来るだけ協力と考えていた。何をするにもお金が要る・お金の寄付・献金は当然と私は考えている。
その為に、援助・貢献と言う思いで、お金を寄付したり献金したりする。
しかし、題目・・・誰の為、等々は興味を引く、事を連ねている・・・若かった私は、それだけに使うものと思っていた。しかし、現実はその組織等々の運営資金にもなっている。要は、組織が維持できなければ、その次の事、困っている人を救うこれが出来ない・・・この見え難い部分にも使われていると言う事・・・若い時には納得できず、騙されたと思っていた。
しかし、社会人と成って・・・考えが変わってきて、先に書いている様に、色んな部分が有ったうえ、出来れば、この方向に使いたいと言う願望、題目と捉えるようになった。
勿論、人様の為と言う、組織・団体・・無駄に消費していないと思うが・・・これも吟味が必要だと思うし、信用・信頼が出来れば、当然、別問題に成る。
私は、信用等、人は明日の身も解らない存在と思っているので、唯物的な人を信用はしていない・・・要は心や命の、唯心的部分は信頼に値できると考えている。
だから、対話を続けて、相手・人を良く理解することに成る。理解していれば、騙されたとは成らない。
私が危惧する部分が、人間が、先に書いている、中学生レベルで大人に成っていると言う事・・・・単純な判断材料・唯物的な見て判断と言うより、己の価値観、趣向で、好きか嫌いかで全てを決めている事・・・
ますます、動乱の時代に向かうと私は想像している。だから危惧と成る。
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