先のブログで企業の目的は営利と書いた・・・綺麗事は言っているが,資本主義の世界、儲けるから,所得が増える・・・・当然,トップクラスのリーダーの所得が幾らかで、本質が見えてくる。底に集まる人も同じ方向性を持った価値観に成る。弁護士にも悪徳/正義と有るように,法・ルールの捉え方で,色々に成る。
宗教界も同じ、人々が何を求めているかで変ってくる。仏教の哲理・原則は,宇宙のリズムに従い、争っても意味が無い,受入れる度量を持てと言う教え、その為に色々考えられる生きて居れば当然に起きるだ有ろうと思われる事に備えろと言うこと,一神教の教えは,色んな負や損と思う事が有るが争うて勝つためという考え、自然も宇宙さえも己の思うようにしたい。支配者、読者医者の立場が幸福だと思っている。
しかし、仏教も、哲理を言っていても人は感化しない,意味が解らないと成る。求めているもの,目的は負や損の解消の為、土着信仰の延長線上に成る。生きる中で一番の苦に感じる部分が四苦の「生老病死」これが解決できると仏教を行う,本末転倒で有る。「生老病死」は必然と説いているのが仏法に成る。避ける手も逃げる方法も無い・・・・後は捉え方の問題で,不幸と捉えるのか,幸福と捉えるのかで変る。当然,生身の人間には難しいと言うより理解できない。仏教も生き残るためには糧も居る当然檀家が必用に成る。人々が欲しがっているものを見せ期待を持たせる方向に成るし,其れが長けている寺院が大勢を奮う事に成る。
要は,民衆・民が何を欲しているか????に成る。この求めに応えるのもリーダー・主の責務と成るが,求めているものが本当に幸せに成るのか????その部分を教わらずに大人・社会人に成っている。要は幼子・餓鬼のレベルで,人より大きく喚き泣くことが者を頼り多く貰える,鳥のひなと同じ・・・ヒナの状態で野に放たれる・・・此が現実に成った為、ルール・システムをヒナでも生きれるように,言い換えれば餓鬼レベルでも生きれる方向に進んでいるが,お金本位主義・資本主義の世界、弱肉強食という部分を無くす事が出来ない、畜生・修羅道にも如何してでも入る事に成るが,基本が餓鬼、何の為か当然俺自身・以外はVS 幼い頃からの学びでこの本質・出発点が変る,最低でも人道というレベルに到達させる。
入院していると,ぎりぎりの精神状態の人が多い,その為に本質の癖・命が出る、助けて,痛いよー、等々の藻掻く環境の中で過すと,色々な勉強に成る。人は意識が無くても深いと感じると取ろうとする。
育てるとは命の研鑽作業と思ってる。真綿で磨きは出来ない,石の様に固いならそれ以上に硬度が有る者で磨くことに成る。当然,命が痛む,此を成長と取らず,ハラスメントと取れば・・誰も,この分野に脚を踏み込むことは無くなっていく、理想論的な宗教界も同じ、益々人間の為・未来の為と、厳しいこと,耳障りの悪い事を言う事自体がタブーに向ってる。今後は己自身で,貪欲に学び知識を吸収して,其れを現実に使って己の智慧にかえていく、此が,人・天道の上の声聞・縁覚と成っていく。人の本質六道輪廻を越える事に成る。後は全てを擲って人の為・世の為と命を使い切れたら菩薩と思う。身を捨てているから守護されていると感じ出す。一神教も含め,,一般人に解るように,天界・天道が幸せのポイントにしている。しかし、個々で違うし,この幸せ感が持続するのか???其れが無い。一瞬の快楽の為に多くの人を泣かせる等が当然の様に起こり出す。自由勝手な民が多い社会のガバナンス厳しい方向に成るし,当然ルールを違反する人も増えるので,罰則も厳しくなっていく
私は,己を鬼畜、畜生・餓鬼レベルの価値観で学んでいるし教えられた。勝つ事が幸せと・・・・仏法には願った事は叶うと有る。鬼畜の命のまま勝ち続けたとしても鬼畜、来世も鬼畜の境涯で生まれるという事に・・・・生きて居る間に研鑽して磨き続けて,ダゴ石がどう変化するかが生きる醍醐味だと思って居る。
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