2020年2月23日日曜日

価値観の多様化・・・・

私は、価値観の多様化が良いと考えている。

我家でも、家族で、色々な価値観を持っている。

四男の若嫁に対しても、各々の価値観で、判断し、それが言葉と成っているし、振舞いと成っている。

何度も書くが・・・何が良いも価値観で変わる。

この部分が、良いか・悪いか・・・この感覚も価値観で変わる。

現代は、同じ価値観が良いと言う、風潮が有る。

若し、その価値観で、損と思える人が居る・・見るのも嫌だと言う、方向性医成る。
それが、全ての人と言う世界に成る。
之が、意味する事は、その集団の固定化された価値観以外は、認めない世界と言う事・・・この様な世界なら、誰しも除外されたくないから・・その価値観に染まろうと努力する。又は己を強制させる方向に成る。

しかし、人間・生物である・・・その価値観が認める、人間としての能力が欠けた場合は・・・当然、排除される事を意味している。

結果、機能不全に成った、五体も・・・騙し・騙し、使い続ける事に成る。

私は、平場が良いと考えている、広い、平原と言う事、色んな人が居るし、色んな価値観が有る世界・・・・・しかし、この世界を劣っていると思う人たちも居る、これは当然と考えている。

その様な人は、平場の周りに有る・・・山を目指す事も有りと思うし、当然、色んな山が有る、その中で、この山が良いと、自分の意思・価値観で向かう・・之も有りと思う。

しかし、山登り・・・登攀できな事も準備して居なければ、登山者と言えない。
頭注で、怪我・病に侵される場合も有る。又、山の状況が変わり、勇気ある下山をする。覚悟が無ければ、途中で飢え死にする事に成る。

若し、同じ、山を登ろうと言う人が居るなら、当然、若しもの時に、背負って、下山できる人を望むはず・・・背負って、頂上を目指す、この様な人を望むが、現実には不可能である。

この様な、人が周りに居る、環境が、本来、挑戦・山を登る人には、必要だと私は考えている。

しかし、その様な人が側に居ないから、私は、平場が人間の住む場所だと考えている。

この部分を劣っている、下層の力ない人の居る場所と、思われていても、私は、この場が居場所と考えている。

勿論、動けるので、山のふもと・・・五合目等には、安全なら行ける。
この様な生き方が、私は人間らしい生き方だと考えている。

先に書いている様に、四男の若嫁・・彼女一人を、息子達各々で、関わり方等々が、違う・・・同じ、親が育てたが・・・事に対しての言動が違うと言う事・・・

突破口は、多々から攻める、之も一つの策に成る。

若し、同じ価値観の、コピー的人が多々居ても・・・一か所を攻める、策かなく、その力加減で、優劣を言う世界に成る。

私は、職人肌と言われる・・・要は、有る山の頂上を目指しやすいタイプと言う事・・・
又、この山を目指す、之が普通と思う、価値観に成る・・・結果、違う山を目指す等々、私の価値観には無い為に、有りえない・究極は、人間で無いと、思うタイプに成る。

誰もが、己が目指す頂上を目指すものだと思っている事にも成る。

この価値観を、成人前に、全否定された事が、私には良い経験に成っている。

要は、どんな人でも、人は死ぬ・・・・又老いる・・・・何が大事かを、よくよく考えろと言われた事に成る。

現代の価値観なら、力が劣る・逆に負が表面化すると・・・人は縁が有っても周りから消えて行く・・・・それが有るから、若い時にどう振舞っているかに成る。

若い時は諸先輩方の先人の縁も大事に成る。
しかし、己が老いると、当然、先人達も減りだす。
先人から頂いた、知恵や縁の大事さを、後世に伝え、後継者を創る・・・之が生きると言う意味だと私は考える様になっている。

先人の一人として、私の分を足した、事を後世に伝える・・・・

之が無い世界なら・・・・何度も書くが、人間として認めてもらえない、時に成ったら、当然、勝手に死ねと言う世界を己で創っている事にも成る。






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