最近、耳にするワードで有る。お客さんに満足を与える!!!・・・等々の言葉がよく耳に入る。
満足???・・・これも人各々、レベルも捉え方も違う部分、人に応じた満足をどう与えるか???・・・・この様に考えると不可能に近い要望という事にも成る。
この部分も恩の感じ方になる。些細な事でも「ありがとう」と言えたり、少々の事なら「しかたがないね~~」で終る・・・等々、人のレベルは幅で大きく変わる部分になる。仮に同じ振舞をしても恩を感じる人、感じない人が居るように、満足もそれと同じだと私は考えている。
私は、何時も大事にしているのは、自分、嘘を付かず振舞っているのか????これを重視している。結果、人の数、色んな捉え方があり、色々、批評されても仕方が無いと思うし、それに対して、逃げると言う考えもない、
しかし、今は千差万別の人に、感謝され満足される振舞をする。これを求める方向に成っている。
相手が独裁者的な価値観の人を満足させるには、奴隷に徹するしかない・・・これが本当なのか????
しかし、現代の価値観は、算術的で、足したり引いたり・・・・要は満足と言うプラスを与えるな事は、当然、己がマイナスを背負う事に成ると言う、考えになる。
唯物的な社会ではその形に成る・・・要は、目に見える饅頭が各自、同じレベルで価値を見ているという世界・・・人様より饅頭を多く食べたいと思い、それが満足だとなれば、当然、食べられない人が出てくる。
同じ価値観なので、不満足となる。
しかし、饅頭を作るのが好きで、それを美味しいと言って食べる人を見るのが幸せだと感じる人が居たら・・・話が少し変わり出す。
同じ価値観のの人達なら、当然、同じものに同じだけの価値を見ている。
私が欲しいなら、当然、周りも欲しいとなる。これを持つ事がステータスに成れば、益々、所有欲が増す・・・当然、周りもに成る。
結果、その価値・お金だと価格が上昇し出す・・・それでも欲しいと言う、所有欲・・人の心の相乗効果で、価値か益々増大する。結果、立場や力が有る人がそれを手に入れ、益々、ステータスが上がる。逆に手に入れなかった人は、負け組・等々の揶揄され・・・・その試練に耐えることに成る。要は、同じ価値観だから争いが起きるし、当然、勝つ人と負ける人が出てくる。負けた人は?????
当然、勝った人も、その価値が益々、上がれば、良いが、燃し、人々から見向きもされない価値と成れば、当然、負け組と同じと成るが、当然、お金も力も有るので、それを維持する方向に、生き続けることに成る。
要は、価値観に縛られた生き方となすり、価値観の奴隷だと私は考えている。
私は、価値観とは多々有って良いし、一人の人間での、多くの価値観で物事を判断した方が良いと考えている。だから、多くの人と関わる、色の違う人とも接する・・・結果、私が陥りやすい、狭い価値観の渦から、逃れられると考えている。
しかし、大事だと思うのは、些細な事にも恩を感じれる己になる事・・・「ありがとう」と言う、感謝の言葉が口から出ている間は・・・負の連鎖を食い止めていると考えている。
以前、私が小学校時代に新聞配達で経験したことだが、昔は、配達員が集金も行なっていた。当然、毎日伺う家・・しかし、どの様な人が住んでいるのかは解らない・・・・玄関で、私の向かって、新聞が雨に濡れて読めなかった、それが数度続いてので、支払いを拒否された。
出来るだけ、濡れないように努力して配達していた。自分は雨で濡れても新聞だけは濡らさない、この思いで配達していたが、中にはポストが無い、軒が短い、等々の家も有る。その当時は、ナイロン袋に新聞を入れるという事の一般的で無い時代・・・当然、軒下や、戸の隙間に挟むようにして、新聞を配達、雨が降れば、濡れる可能性は高いことは解っていた。
それを指摘された、濡れると解っていて何故、この様な配達をするのか、心の中で、ポストが有れば、軒が長ければ、戸が開いていればと思っていたら、お客さんから、俺が起き戸を開けるまで、待っとけ!!!と怒られた。当然、雨の日は、明るくなってから、その家だけは配達していた。しかし、感謝されたこと無いし、些細な事で、支払いを拒否されたし、その分が、配達料からさっ引かれていた時代になる。今この様な事が起きれば、問題・犯罪となるが、昔は当たり前だし、当然だった時代。
しかし、お客さんには、高齢のお婆さんだが、集金に行く都度に、「ありがとう」これ食べてと、ミカンやお菓子を何時の頂く、処も有った。
私は、直ぐにバランスだと言う・・・・その人の経験が、新聞配達、私の考えでは、悪いところも有るが、逆の良い部分も有る。そのバランスが保たれて居れば、幸せだと思うように成った。
その対価は、当然、家の仏壇に供えて、その後は、行方不明になり、母に尋ねると、お前の将来の為に貯金していると言われて、現実の生活費に使われた。家の足しに成ったなら、結果オーライだし、良しとカンゲル事に私は成った。
要は、現象の捉え方、結果の捉え方・・・三流の私でさえこの程度なので、私以上の一流や優秀な人なら、当然、経験無いし出来るレベルと思う。
要は、感謝の「ありがとう」これが、口から常時、出ている環境が幸せと言うこと・・・・不満や愚痴が何時も出ているようなら、不幸だという事にも成る。
当然、優れている人が多いので、殆どの人が幸せだと思うし、当然、「ありがとう」の言葉が連鎖が起きていると思うが、
現実は違うので、先に書いた、満足を与える等々の、言われ出す事に成る。
今朝、五男を起し、駅に送った。当然、土曜日、電車の時間が違うので、早めから起したが、結果は、ギリギリで、五男が車に取り込み、今日は何故か、赤信号に引っかかる事が多く、直ぐに五男が遅刻しそうだと言い出す。当然、何度も言っている。何故か、早く起きないのか???・・・少し余裕が有れば、この様な暴走運転する必要も無いと、入ったら、プックと感情を害したようだ・・・ギリギリ間に合ったが、降りる際、財布が無い、忘れた・・・前から気付いていたと思う、しかし、言えなかった、理由はプックと感情を害した様相をしたために、それに重ねてが言えないとなる。これも、感謝、叱られてお「ありがとう」と思えて、口から吐けるようになれば、直ぐに対処が出来る。
要は、我を張った為に、大事になる。結果、私からお金を取って、駅に向かった。要は、定期も、昼食代も無い・・・・本人にしてみれが、得した、己のお金が減らなかった程度で片付けているから、その後に役に立っていない。
私は、結婚後、父母を何度旅行に行かせたか、当然、子守も含め・・・・孫達と、何度も旅行しているし、息子達も、祖父母から一杯の施しを受けたと感謝しているし、何かの折には必ず、実子を連れて、仏壇に手を合わせている。要は恩を感じているからだと思う。
息子から、「あんたは子供を無視していたので、感謝等、思われていない」と言っていた時期もある。
息子らが欲しているものは、基本、お金、この部分は私の管轄で無い・・結果、手を下していないと言われても仕方が無い事になる。
人は、立場が有り、役割がある。この部分が、綺麗にいびつ無く・・・広がっている世界が、理想になる。有る一部に吐出して部分が有れば、いびつで問題が有ると言う事になる。
これが価値観の一極化の弊害である。
要は、人の幅、許容力が広がる、教育を行ない、仕方が無いで片付け・終われる人の輩出を止めれば、当然、先に書いた、いびつで無く広がっている世界・社会を創るしか無い・・・・
己の持場は死守するが他は考えもしていないし、他をと言う想定も無いと言う事、仕方が無いと、その部分までホローできる人が昔の日本人には多かったが、現代は、白黒と、二極化に大きく分かれている。