私のポジションは、上も見えない・下も見えない・・周りも手が届く範囲しか見えない・・・・ドブの中に居るので、身の回りしか感じ取ることが出来ない・・・
今は、光も見えないので、どの方向が上か下かも見えない、場所に来たようだ・・・・
もう直ぐ、底に足が着くかもしれないが、その距離感も解らない・・・・
この状態に成れば、振れた者同士、共に頑張るしかない・・・上の足と思ってしがみ付いても底に向っているのかも知れない状態・・・己だけは信じ、周りの振れた者と共に生きる事に成る。
以前も書いて居るが、上下が解るだけで幸せと思う。逆にそれが不幸を感じさせているなら、私の様に、上下さえ解らない、ドブも深い方に進んだ方が良い・・・
上に書いて居る様に、上に居る人の足にしがみ付き、上へを望む、この傾向が私には有るので、この高いレベルでも地獄絵図状態に成るのも、不幸なので、己の個性・分に合わせて、上下も解らない、今のレベルが私には良いと思える様になっている。
上水の世界に住む人は、底が見えると言うが、底は見えている範囲で、その下に有る。
その部分が、本来、大部分・大多数のレベルに成る。
見えている範囲を社会と言うし・・普通・一般的と言う・・・当然、その下は有るが、怖くて覗こうとしない・・・・
孫悟空の物語も、村々は、このドブの中を表している。その中に、優秀で一流で人類愛を求めている、僧侶が来る、当然、蜘蛛の糸と同じで、誰しもが争い、その僧侶を手に入れる、食おうと考える・・・奇麗ごとでは済まない世界が、本来の社会には有ると言う事に成る。
当然、この部分も理解しているのが、最近の知識者と言われる人に成る・・・結果、その様なレベルには入ろうとしない・・・又、己の価値観に含めて居ない事に成る。
勿論、上水の中で、一生暮らせる人なら、それ以下、見え難い世界等々、気に掛ける必要もないと思う。
しかし、それを認めない、世界がこの世と言う世界に成る・・・之が常態化しようとすると、天変地異や病魔が世界を襲う方向に成る。
要は、この世を掻き回す方向に成る・・・上水も底のドブも、大きく動き出す事に成る。当然、それを阻止しようとする、人々が存在する。上水に住む人たちに成る。
その為に、濁りが酷い、底だけは動かない方が良いと、コンクリートを流す作業等々を行う。しかし、それさえ崩壊させる、天変地異気が起きる事にも繋がる。
手探りで生きる・・・之が一番面白いし、これ以下は死かない世界・・・必死に手探りをする事に成るし、当然、楽しさも出て来る。
思う方向を定める事も出来ない・・・理由は上下左右も解らない・・・・しかし、生きれる事には違いは無い・・・・
又、この部分での生き方を、後世の人には教える必要が有ると私は考えている。
澄んだ水を望むなら・・・トイレの宣伝で無いが、元を断たなければ成らないと言う事・・・間違っても上水の世界を求めたらだめだと言う事・・・
未だに、私はドブの底に着かない・・・底の行く事が出来れば、根を張る事が可能になる。
何度の書いて居るが、私は仏教徒に成る。仏教思想の基本は、蓮に成る。
この世を現す、例として、池とする。濁っている・底が見えない池がある。その池の水を浄化する為には、水が動かなければ、ゴミは沈む。しかし、温度変化や風等の影響で、水は動き続けている。
奇麗な水が欲しいと思う、立場が居たら・・・当然、水の動きが止まり上水だけを得る事が出来るが、それでは、元を断っていない・・・之が、釈尊の悩みに成る・・・
上水の世界を望む人は多い・・・しかし、上水を増える分、濁る底が有る。この相反する、問題が、蓮に繋がっている。
要は、仏教とは・・・底を目指し、底に根を張る、蓮に成れと言う事に成る。
蓮は、水を浄化する・・しかし、濁った水が無ければ、蓮は良きれない。之も、矛盾である。
アサリ貝等も同じ、水の浄化を行っている。しかし、浄化した水では己の生きる糧は無いと言う事で生きれない。
孫悟空の物語も、要は、この部分を説いている・・・説話に成る。
要は、この部分を目指せ、当然、一般に言われる良い事は無い・・・無いが、絶対に必要な部分と成る。その為に、仏教徒は・・・上水で胡坐をかかず、俗世間に入れと言う事に成る。
奇麗ごとが通用する世界は、上水の限られた世界に成る。この世界が正しいと成れば、少しでも濁っている世界は、間違いと成る・・・間違いは正す事が出来るか???出来ない・・・出来なければ、排除方向に向かう・・・私が何度も危惧していると言う事は、独裁的、方向に進んでいるからに成る。之が正しい、これに属しなければ、排除される、この世界に成れば、己の思い等々表現が出来ない世界に成る。
若しすれば、排除される・・・奇麗ごとで済む世界・・・之が独裁と言うと、????に成る人が多いと思うが、今はそれに向かっていると私は、書き続けて来た。
見え難い世界だから、己が向かわなければ、解らない、当然、見えないから手探り等で判断する事に成る。
私は、安全ベルトも外している・・・理由は底が目標だからに成る・・・
しかし、怖い・勇気も私は無い・・・一気に向かう事も出来ないので、体を慣らしながら進んでいる。
釈尊が偶像化を嫌った理由もここに有る。
人が生きる為の教えに成る・・・分に応じて先に書いた、池が違う・・当然、大きさも・不深さも違うし、水の状態も違うし、流入する水の量・質・場所も色々・流出する水の量も質も場所も違う・・・
私の場合、出来れば、奇麗な湧水の流入を望んでいるが、現実は、下水道が流入している。
流出は、当然、奇麗な水と思うが、本音は、底の汚れた水を多々流出したいと思うが・・・何故かプライドが邪魔して、奇麗な水と成っているので、浄化機能が劣っている私の場合、水嵩が増す方向に向かっている。
之も分相応と思う、力が有る、当然、浄化能力が高いと言う事・・・どの池を望むかは必然と決まって来ると思う。
若し、社会全体に影響を与える力が有るなら、その全ての池を、大きな池で、囲んでいる状態を言う・・・当然、各々の池から、排出される水も色々・・・全ての池を管理できる立場だから、その総責任が有ると言う事にも成る。
大きな池から排出する時、当然、有言実行と思うので、澄み切った水の輩出を行うと思う・・・之が出来なく、内に有る、汚い水を輩出する池が悪いと、排除に向かう、価値観の人が、今は、目立っている感じが私はする。
小さな単位に戻す、池の形成している、水、この一つ一つが、人間と捉えると、濁っている人の流入を止める、これが、澄んだ池を作ると考える人が居ると思う・・・之は差別に繋がらないのか????
若し、この状態の池なら、当然、澄んだ水と装って、入ろうとする人も出て来る。
又、澄んだ水とは????之も、決める必要性が出て来る。
魚も済めない、奇麗すぎる水を望むのか????・・・等々が出て来る。
要は、人間として、何が出来るか???・・・之を問うのが仏教である。
仮に、世界を纏めた、池が有る・・・全生命を入れた池、それは仏が責任と取り、浄化できるのか????・・・出来ない・・・出来ると成れば、誰も何もしないで良いと言う結論に成る。
出来ないから、各々の分で、己の持ち場の池を浄化するかに成る。出来なければ、当然、先に書いた、大きな池に囲んでもらえない事に成る。
囲んでもらう為には、求められる浄化値を装う事に成る。
個の粉飾が、中の粉飾に繋がり、大の粉飾へと向かう・・・最終的には崩壊に向う事に成る。
私は何時も書いて居るが・・勝つ人が居れば、負ける人はそれ以上発生している。
その人達は、誰が面倒を看るのか????勝つ人には黙っていても人が集まって来る。
しかし、敗者には人は寄り付かない・・・・
之を当然の事と、思える人は良い・・・しかし、当然と思わない人も居る。
今の時代、極一部しか得る事が出来ない、これを誰しも得れる事と、言う、方向性の情報等は多い・・・要は、多々の勝ち組を創る事が勝とうと成る。しかし、現実は、それ以上の負組を発生させている。
人が社会を構成していると考えれば、殆ど多数の敗者と、極一部の勝者で構成されているのだが・・・何故か、敗者に対しての価値観・教え等が、何故か情報等で無さ過ぎる。
この流れなら、全ての報道・情報、社会のシステムまで、勝者の為の方向に向かう事に成る。敗者は益々、生き辛い世の中に向かうと言う事に成る。
しかし、扇動や洗脳で、全ての人が、己は普通で、敗者でないと思い込んでいる。之が、問題・・・・普通を装っていると言う事さえ、解らなくなっていると言う事・・・
良識人を振舞っているだけで、実は、敗者と言う事・・・・
若し、良識人なら・・当然、毒は我が身と思う筈。しかし、毒は絶対に口にしないと言う人が殆ど・・・若し誰かが口にすると成っているなら、願って我口に・・・この様に考える事が良識に成る・・・
要は、負は他人と言う価値観内での良識人と言う事に成る。要は利己主義の事を良識と言っている事に成る。
之が扇動・誘導に、陥りやすいタイプと言う事にも成る。
私は、分が無い、又、三流で劣っている、その為に、家長であっても、負を背負いたく無いと言う思いが強い・・・しかし、長として背負わなければ成らないと言う思いが有るので、嫌と我が思っても、背負う事に成る。
最終的には、開き直って、家の負は己に~~~~と叫ぶ事に成る。
之が最低でも長の覚悟だと私は考えている。
勿論、家長としての能力が無いので、この様な振舞いに成る。
小さな集団の長でさえ、覚悟が必要だし、勇気も必要と言う事に成る。
私の池の大きさな、家の大きさと言う事、広くて、親族・一族・隣組程度に成る。
日本国、一流で優秀な人が多い様に見える国・・・・笑われるレベルが私と言う事にも成る。
仏教徒が多い、日本国・・・神道も道を表す、間違っていないし、人が人として共存共栄を求める、道に成るので、私が書いてることは、誰しも、解り切っている事だと思う。
又、男女平等と言われているので、昔は、長兄に教えていた部分・・・当然、全ての人が解っていると思う。
しかし、前のブログに書いて居る様に、この部分を教えず、男としての部分も教えず、女性に教えていた部分だけで男や長兄に教え、それ以上を教えて居なければ、集団の崩壊に向う事に成る。
己だけ・・己さえ良ければ、広がって我が子までの範囲・・・・家や属や村と言う集団の単位さえ、考えないと言うより、それが害をなすと言う考えに成る。
女の怖さは、人間を産める能力が、神に近い存在と思っている事・・・実子と他の子供と確り違いを認識している。
物を作れい出せる人と、そうで無い人との物に対しての大事さの違いが有る様に、生命に対しても同じである。
要は、冷酷で残酷な部分が有ると言う事、この部分は動物でも言える。
要は、余裕が大事に成る・・・環境に成る、それを創るのが昔は男だったが・・・今は男女平等で、社会と成っている。
子育て福祉の充実・・・その現実を見た、子育てが終わった、女の人達は、良いように言っている人を見た事が無い・・・・
今なら、私も離婚していた、離婚した方が、楽に子育てできると、間接的に夫の能力の無さを、指摘て居ている。
この様な親の娘が、現代、子育て世代に成る、親は、どう振舞っているか???当然、理解が出来ると思う。
しかし、社会全体から見れば、その負担が、社会へと向かっている事に成る。
社会保障の出費を、働き手は、喜んでいるか????、私の嫁は給与を貰ったが、社会報償費の金額に驚き、悔いていた・・・・
こんな、給与なら、生活をすると成れば出来ないと・・・この金額で、子育てをする人達が居ると言う事・・・・
高齢化も進む・・当然、長寿が良いと、加護な医療等の提供も続く・・・当然、その負担は社会に成るし、働き手からの徴収に成る。
皆、喜んでいると思う。奇麗ごとの世界に向かっている。良い事に成る。
私も年金を頂ける年齢に成る、速めに貰って、早く死にたいと考えている。
力が無い私にできる、社会奉仕の一つだと考えている。理由は、当然、私の周りだけと思うが、社会報償費の金額に納得できない人が、多々居るからに成る。勿論、私の周りの限られた世界に成る、一般の人々は喜んでいると思う・・・・