動けば痛いし・・・医師からは安静を指示されているが・・・
安静も、楽ではない・・・・
しかし、事故後時間が経つにつれ・・・・色んな憎しみより、生きている事に感謝だし、奇跡だと考えている。
何度も、死んでも不思議でない、経験をしていて、何故か、生き残っている・・・
今回も同じ・・・こんな、歳に成っても、私にマダマダ、しないといけない事が残っているのか???・・・
之を格好よく言えば・・・使命が有るのか???
死んでいれば、色んな経験も出来なくなるし、この事は、嫌な事や、きつい事も無い・・・よく楽な世界と表現されるように、楽な世界から、拒絶されたと言う意味なのかも知れない。。。
色んな、ものを背負っている状態で、終わる事には行かないし・・・・
この重さが、逆に私を生きる方向に向けているのかも知れない・・・
私は心が弱いので、この背負うものが重い、降ろしたいと思う気持ちが強い・・・・之が三流意識の私だから仕方が無い部分・・・
普通や優秀な人なら、背負い続ける、持久力が有る・・・
しかし、私はツイツイ、自分の心の弱さで、楽な方向へ進みたいと意識が誘導するが・・力が無い為に、結果的にキツイ方向転がって行く・・・こんなレベル・・・
背負っているものを、対岸に届ける、使命が有ると言うことになるのかも知れない・・・
今RCを趣味として楽しんでいる、自分の一部として操作出来る様に成りたいという願望で頑張っている。
よく考えると、こんな体の状態、自分と言う体さえ、思う様に操作が出来ないでいる・・・
体も、若しかすると、意識が操作している、物かも知れない・・・
思う様に成らないからと・・体を交換したり、変更したりする事も、私の力では無理、若し出来る様になれば、自分と思っている体さえ、RCカーの様に、簡単に変更する可能性が有る。
自分と思っている自分・・・何かに成る・・・物質的な部分では無い様だ・・・この非物質の自分が、何故形を求めるのか、物を求めるのか・・・不思議である。
体が停止してしまう、之を死と言う・・・・しかし、体さえ、自分と思っていないし、不都合が有れば、変更を求める・・・・体は商品と同じと考えている様だ・・・
自分が体を指すなら・・・・もう少し、覚悟有る行動を愚直に続ける事が出来ると思うが、それが出来ないのは・・・物と考えている方向性が強い・・・
その様な人が集まった、環境が有ると言うことになる・・・・この環境も思う様にならない、嫌いなら、他に移れば済む、こんな意識に成って行く・・・
今の足場の変革等考えない・・・・
有る人が生きることは・・・自分探しと言われていた・・・・自分を知らないから、行き続ける・・・
生きる環境でも変わるし、時代でも変る・・・しかし、基本に成る、自分と思う命が有ると言うことになる。
命「いのち」とも読むし「めい」とも読む・・・・自分の「めい」と読めば意味が変わる。
命「いのち」を授かる・・命「めい」を受ける・・・同じ漢字でも感じ方が変る・・・
結局、生きると言う事は命「めい」を具現化する事に成る・・・之が使命と成る・・・
自分は、何の命「めい」を受けて生きているかを、探す事が先決に成る。
三流市民だから、この様な事も、考えないと、思い浮かばない・・・当然過ぎる部分でさえ、知らないから模索し続けている。
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