私は理工系の人間・・・物事は行動が結果となると思っていたし・・・この実践が、不可能を可能にしていくと思っていた。その為に、祈る等々は負け組の手段と思っていた部分も有る。
要はこの時点でも私は差別主義者と言うことになる。
祈ることは、行動・実践で無いのか????・・・
勿論、行動・実践とは思うが、何故か祈ろうと思うと、己の我欲、私の場合は、鬼畜の命が強く出だしてしまう。例としては、彼奴に勝ちたい・誰よりも物を得たい等々、三流で劣っている人間が思う以下の鬼畜の本性が出だす。結果、祈ることが怖かった。
しかし、己は鬼畜だ、差別主義者だと自称するようになり・・・この怖さが無くなってきた。要は、人の姿に粉飾していた時代が長く有ったと言う事に成る。本性は鬼畜だが、一般の人を演じたいたことになる。これこそ怖いし、己自身が解らず、混乱し出すと思うし、この混乱を忘れる為に、一喜一憂を求め出す。
今は、私は祈れる、これを幸せだと思うように成ってきた。祈ることさえ出来なくなったら・・・と・・・考えると、先に書いた怖さ以上に恐怖を感じる。
昔の考えだと、不幸だから祈る・・・行動出来ない無能者だから祈るしか出来ないと考えていたが、大きな変化になる。
この様に考えていて、対外的には平等主義者・・・嘘つきも大嘘つきとなる。
何も行動しなければ、無になる。
無は????・・・・私は終わり・死だと考えている。
当然、「生老病死」の四苦から逃れない命・・・最終的に無になるが・・・要は、今の環境・場所まで、無くなる。無になれば・・・死後の無が永遠に無限に続くという事に成る。
私は、再度、産まれてきたい当然、今の環境で人としてと願っている。
その為には、今の環境・場所が必要に成る。
しかし、全てが無に向かているのは現実だと思う。それに抗う事が生きる事だとも思っている。
例とすれば、ところ天を作ると言うか、出す、道具が有るが、圧力を掛けて、ところ天をうどん状にする装置になる。ところ天が自動的に常時補給されていれば、圧力は掛かり続け、自動的にところ天がうどん状に出て行く・・・・この常時補給が無くなれば、当然、装置内のところ天は無くなり、無となる。今は、この方向に加速して、日本国は走っている。
要は、無に対して抗うから生きていると私は考えている。当然、キツイし、楽だとは思わない・・・しかし、それが生きる事だと私は最近思うように成ってきた。
全てが順送り、この順を送られているので、当然、参加者が続かなければ、順送りも出来なくなる。最後は????・・どんなに抗っても、落ちていき、無が残るだけになる。
だから、祈りの大事さが有ると私は、最近考えるようになってきた。
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