区の総会の案内状の件で、区長が来訪・・・
今日の二つの行政区で一つの村に成っているので、村の公民館は二つの行政区の公民館と成る。その際の意見等々の話になった。
当然、時代と共に、日本人も変わっている、その為に、規約等も変化が必要だと言うことは解るが、何故か四角四面の方向になるし、人間らしさを受け入れない方向になる。私は言う人間味は、この場合、年齢や体調等の配慮が無い・・・昔と違い、家督制度で無い・・・結果、個々の家は個人という事、昔は家に対して、一を要望していた。当然、色んな人が家族の一員だったので、可能だったが・・・家に対しての要望は同じ、しかし、その中に居る、家族が、個人、その個人も、五体不満足の場合も出てくる。動きたくても動けないこの様な人に、参加しないなら罰則・・・等々は配慮に欠けるとなるが、四角四面の論理的考えと言われる方向だとこの様な立場、普通という事を前提に事を作る傾向が有るし、何処の価値観か解らない、この様な地域もある等々・・・要は、他のことはしたくない、簡単に書けば、他人等々の責務は知るか!!!と言う価値観に成る。
何故、この様な方向性の人が増えているのか???・・・それだけ余裕が無いのか????・・・昔に比べて環境は???・・・想像以上に恵まれた環境に成っていると思うが、地獄の環境なのか???自己防衛本能で己だけの様に見える。
優秀で一流なら尚更、余裕が有ると思うが・・・・何故か、その様に見えなく俺・俺と何故か見えてしまう。
結果、俺さえ良ければ、楽であるなら・・・この方向が幸せと言う価値観の蔓延が全ての問題の根源だと私は考えている。
以前も書いているが、昔の日本人は、己の宿命・宿業を受け入れようと努力していた。だから、この信仰を信じると貴方は救われる等々の布教には疑問を持っていた。己だけと言う囁きに耳を貸さない価値観が有ったと言う事・・・
人に堂々と言えない、後ろめたさに得が有るという価値観も有ると言う事・・・・
どれを選ぶかも各自の勝手になる。
だから、難しい、今と言う瞬間の事と、未来永劫という時間軸と有るし、当然、答えも変わってくると私は思うが、何故か、今と言う一瞬の事柄で事を決め過ぎる傾向が強くなっていると思う。要は、対処療法を前提に行っているが、此が正しいという固定観念が強すぎる。その時・との時・違うと言う、価値観も私は必要と思っている。
ルールを決める場合、すり抜ける輩が居るから、厳しくなる方向に向かう・・・何の為のルールかを基本に確り据えないと、大変な事に成る。
私は、民度が環境を創ると思っている。要は、その人の好みに環境が成っていく・・・要は夢は思い続ければ叶うという事・・・・
特に怖いのが、ルールや規約が、人を阻害・排除する受け入れが肝要で無い方向になる危険性・・・村という集団に溶け込めない人を多々作る可能性も有る。
ルール規約は必要と思うが・・・難しい部分になる。
行動する、己が好んでと、好まないが強制だと、二つ有ると思う。楽で利を得られると言う価値観の人は、汗を流す、苦労する行動は、強制以外、無いと勝手に思ってしまうことに成る。
世の中には、好んで死に向かう人も居る。私も若いときはバイクで命懸けの走りをしていたしそれを快感に感じていた。
物事の捉え方になるが・・・この方向が、幸せという方向は、全ての事柄を良かったと捉えられたら、幸せとなる。
貧乏だが幸せでも有ると思うし、病を患っていても幸せとは有ると思う。劣っていても幸せで有ると思うし、変わり者でも幸せが有ると思う。
逆に裕福でも不幸が有ると思うし、健常者でも不幸が有ると思う。優秀で一流でも不幸は有ると思うし、普通の人だが不幸は有ると思う
要は、お互い様・・・一蓮托生と言うこと・・・
現代は、怒りという感情を出させる情報が氾濫しすぎている。怒りから何を生まれるか、悲惨と私は考えている。
要は、悲惨になりたくないから、強い方向に寄生する人を増殖している。
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