最近、立場等の考え方が、己という存在の考え方が、一方向、様は、個人主義・利己主義方向に向かっている様に感じる。
その基本的、捉え方に、神と仏の違い・・・これも理解していない人が多い・・・勿論、神の存在・在り方も、仏と同じだったかもしれないが・・具現化・可視化の方向に向かい・・・・形有る姿を想像できるような状態に今は成ってしまった。
要は、刷り込みと、具現化した・可視化した想像図等を見せるからになる。
しかし、仏・仏教も最近は、可視化した具現化した、仏の姿を現し・・神との違いが解らない・・・
一神教の神と同じで、力が有り、慈悲深く・・・愛情豊かな人間的姿を想像できるようになってしまった。
結果、仏に縋り、謝れば・・・許され、良いと思う、当然、その本人が思っている良い方向に、運んでくれるという・・・西欧の一神教的な仏教も現代は出てきている。
模し、これが事実なら、仮に本人が思っている天国に居ると言うこと・・当然、今世で色々な、事・・当然、悪い事を行っても、許され、天国に導くとなれば・・・今世は何を行っても良いし・・神掛かった仏の足下に縋り付けば、助かり、幸福・天国に行けるという理屈になる。
この理屈で・・・仏教には業という、カルマが説かれている。
要は、過去世での言動の付けが業で有る・・・・善業も悪業も有ると言うことになるし、その影響で、業を背負い生まれると言われているし、それを解消するために今世に生まれたとも言われる。
全て許される、仏に縋れば、神に罪を言えば・・・・と同じ事に成る。
この一度、業を抹消された人が、来世に生まれる事は無いし、有るなら業やカルマという事も無いと言うことになる。
勿論、神仏の足下に縋り付く・・・この行為をすれば、天国という世界に居続けることが可能で、今世に生まれる事がないとするなら・・・生まれてくる人は、神仏に縋らなかった人と言うことにも成る。だから、罪多い人だから、この世に生まれたとなる。
この考えなら、この世は地獄と言うことにも成る。地獄は、一流な神仏を認めなかった人達と言うことに成る。
私が、この価値観は、破滅に向かうと言っている理由は、この部分になる。要は、この世という部分は無視・・・あの世が良いところ・・・当然天国的なところなので、その場を離れたくないはず。
この世、社会・世界が崩壊しても、良いと言う理屈にも成っていく・・様は、己以外の、家族・弟妹・親・子供さえ・・・必要で無いし、逆に負に感じる存在となる。
この様な価値観に成れば、当然、家族崩壊・夫婦という一番小さな単位の集団さえ維持できない・・・利己主義の鬼畜と同じ、価値観に染まり、この世は生きる、最終的に、あの世で、神や仏に懺悔すれば、天国と言う環境を与えられる・・・簡単な、宗教と言うことになるし、何の為の宗教なのか??・・・簡単に書けば、従順に権力側に従う、扱いやすい人を輩出することになる。結局側に都合が良いから、宗教も生き残っている部分が有る。当然、生き残るために、変化していると言うこと・・・
これを前提に、考えた方が良いし、全ての事にそれが言える。
有る企業も、創始者の思い、哲学は尊敬できる、それを継承しているように見えるが・・その組織・巻単に書けば、形有る企業となったために、その企業の存続を続けるためには、当然、企業哲学等も、表面的には見えないが多い句変化している。
勿論、生き残る、弱肉強食の世界で・・当然、口から言えない事柄、汚いことも多々有ると言うこと・・・・しかし、それは隠す方向になるのは、誰しも解ると思う。
私も、家族を守るためには、鬼にも鬼畜にも当然なる。人さえ殺めると思う。
この様な状況にならないために、今の環境をどうしていくか???が問われている。
要は、利己主義・自己保身が結果として、敵を創り、生きる環境を悪くしていく・・・私みたいな三流の人間でも解る部分・・・一流で優秀な人が権力側なら、この流れを己に利用すると言う人しか、生き残らない世界に成ってしまったら、独裁国家へ向かうことに成る。
強い独裁者に、縋り、懺悔すれば、助けて頂ける・・・神や仏が独裁者に変わると言うこと・・・
各自、レベルも立場も違う・・・その環境下で、どう生きるかが結果として、環境を創っている・・・と、言うことは、変えることも出来ると言うこと・・・
要は、どのレベルで事柄を観るかで、評価も変わる・・・レベルが違う、特に優秀な人に、良い評価をして頂く・・・当然、レベルが違うので、捉え方、方向も違うことになる。
要は、最善と思われることが立場やレベルで違うと言うことに成る。
もし、優秀な人が先に書いた独裁者的、価値観の人に、認めて貰いたいと成れば、己も独裁者的、価値観に染まるしかない。
勿論、全ての優秀な人が独裁者的価値観だとは思わないが・・・模し、他人を利用するための力・優秀さと思っている人が増えるなら、優秀という肩書きの人の言葉は信じないことが求められることに成る。
勿論、捉え方、騙されたと捉えるか、経験が増え・知恵が増え感謝と捉える人かで、大きく意味合いが変わってくるが・・・
本来、仏とは、この様な捉え方の多様性が多々有る、その多くの捉え方の中で、己に一番都合が良い、当然、我欲・煩悩の考えで・・となれば、世は崩壊に向かう・・・当然、本人も地獄の苦しみ、周りの人は誰も解ってくれないと叫ぶような人まで出てくる。
何度も書くことだ、人間で形成している社会、生物・命の集まりで形成している世界・・・間違いも失敗も多々有る事が前提で・・それをどう捉え、己の為という小さな方向で無く・・・今後の社会・世界の為という捉え方が何故出来ないのか????
この流れが、仏も一神教的、方向に向かっていると言うこと、様は捉え方に成るし、宗教界・仏教界も、庶民の耳障りの良い、受け入れやすい方向に成る事に、私は危惧している。
勿論、一神教も本来は、教え・・・師匠と弟子の関係で有ったと思うが・・・救う人、救われる人と分けてしまい、結果として対立を自己の中に対立を内在している。
仏教さえ、この流れ、師匠と弟子の関係だったが・・結果として、意味も理屈も解らないが、師匠の言動の真似をしたい・・・これさえ無くなっている。
これを言うと、現実論的に、人間・凡夫が可能なのか、出来るか???と大声で言われる宗教家もおられる。・・・人とは、それ程、下等なのか???この下等な動物の人間として、仏も神を生まれていた。
人間でも可能だと言うことを、仏や神は証明しているが、それを信じられないという、宗教家も多い・・・人では無理なレベルだから、力が有り慈悲深い神や仏の足下に縋れ的な、価値観が蔓延しすぎている。
釈尊が言っていた、末法と言う、現代を表していると思う。
強いリーダーが引っ張っていく流れからの変化を問われている時代に成る。要は、民、一人一人が確りと、己の足で歩き出す時代と言うこと・・・当然、周りには背負わなくては進めない人が大勢居ることも見え出す。背負わなければと成る世界に、向かわないと、人間社会は崩壊する。
強いリーダーを求めていると言うことは、民が弱くなっていると言うこと、簡単に書けば、能力が高い、強い・慈悲深い・神や仏を求めていると言うこと・・当然、己以外に・・・ここの変化が大事、己が成ると言うこと救われる人で無く・救う人、当然己の身は犠牲になるが・・・・
この覚悟が無ければ、崩壊・破滅に向かうことは誰しも解るはず。
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