2025年12月29日月曜日

隣の芝は良く見える。

 利己主義から発生するのが、自分だけが良ければ此を目指し。余裕が出れば少しは他に尽くしたいとなるが,夫々で余裕のレベルが違う・・・・一億稼いでもギリギリと,他に目を向けない人も居る。私は稼ぎも無い状態でも,何か出来ないかと模索し続けて居る。「隣の芝は良く見える」人として。当然捉え方、比べる我家の芝が有れば,正しい捉え方、。しかし、その後は,問題。隣が出来るなら,我家も当然,努力を続ける先生として捉える。人との競争で無い,己を個乗させるためには,勿論・精神的・魂部分になる。その為の宿題と私は捉えるし,劣っている私は先生になる人が大勢居る。その人々から多くの事を聞き、知識にして最後は智慧にしていきたいと考えている。諸先輩の価値観・哲学を後世に少しでっも繋げることが出来る。

己は変化しない,理由は,優秀で一流だからと言う価値観の人、「隣の芝が良く見える」場合は、基本無視、それでも目に付くと,出て行け,敵と言う対応をし出す。最終的に芝に火を付けて炎上という方向に成る。己は出来上がった,一流と思うことが人の成長を妨げている。仏教で言えば,この世に居るのは修行に来ているという事・・・楽しに生まれたわけで無いし,その様な世界環境で無い世界に生まれた。要は課題が多々有ると言う事になる。個人としてこの課題にどう取り組むかが問われているのに,知らん顔・・・綺麗事だけを言う・・・・他人任せになる。釈尊は,生命・魂という物は,インドの大河の砂粒のように有る。要は無限に有る。下種仏法ご言う概念が有る。魂・命の仏法、限定した人だけの教えで無い,その為に囲い込みが弱く,衰退していった。種は巻き続けられている。巻かれたや、種の種類でどうなるかになる。末法と言う世が環境を悪化し続けて居る。生命の種は無限(不可説不可説転)有る。其れをどの様に育てるのか,環境・周りの萍郷になる。

透析日の為に、体を休めて,今後に努めたい!!!


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