2019年7月4日木曜日

普通が高まれば、当然、信頼の範囲も狭まる

私は、ブログに、普通や基準・・・この様な事をよく書く・・・・

私は、色んな人が居るし、出来るだけ、信頼したいと考えている。
その為には、自分の普通の許容範囲を増やす事に成ると考えている。

何度も書いているが、この普通の部分、基準の部分を狭める、これが、世の中を潤滑に世界つ出来る、方法と成っているのが、現在だと私は考えている。

誰もが、反対できない、それを基準に普通を作る。反対できない部分だが、それが出来るかは考えていない・・・自分が出来ないが、理想は高いという人も居る。その様な人の場合、当然、頭に浮かぶ理想を、基準とする傾向が有るが・・・当の本人も出来なことに成る、この部分を矛盾と考えないのが、現代に成る。

結果、基準に準じられない人を多く輩出する・・・負け組とも考えられるが、被害者と捉える事も出来る。

本来、この普通と言う部分を、一極に向ける事に私は疑問が有る。
各自、普通が有ってよいと考えている。

各自、違う普通が有る・・・之を理解すれば・・・負け組も作らないし、被害者意識も出難いと思う。

又、この様な事を書くと、差別主義者・平等意識が無いと言われるが・・・
現実に、五人の実子も、扱い方が私は違う・・・男の子しか持たないが、それでも違うし、若し、女の子を育てたら、大きく違うと私は考えているし、それが差別とは考えない。
よく、被害者側の、思いが大事だと言われるが・・・私の子供も、次男等の下の子は、上の子のお下がりで・・・新品は殆ど与えていない・・それを差別だと、時々言う・・・

私も勿体無いから、成長て着れなくなった、服を下の弟が着る事は、正しいと考えている。私の普通と言う事に成る。

しかし、子供達の普通は違うから、差別だと感じている事に成る。

私の逝った友は、男だが、幼稚園の時に、スカートを履いて、登園している。着るズボンが無かったからとの事・・・上の姉の古着を着てきたという事で、彼の母親はそれが最善策と思ったからだと思う。

最善策も結果的に、各自の普通で、多々ある・・・その振舞いに成る為、多々の振舞いが有る、之が世の中だと私は考えている。

その世の中で、生きる為にあh、当然、我が子には、対応力と、許容力を多々持たせることに成る。

我家でも、普通や・一般的と言う、言葉を付けない方向に成っている。
自分は・・・・と・・・言葉を組み立てる様にしている。

この普通や一般的と言う単語は、人を誘導・先導する力が有る。その責任を負う、覚悟がば、使ってもよいと思うが、無いのに使う人が多いのも、現在と思う。

指摘すると、直ぐに他人が言ったと、他に責任転換をする。

私の普通は、自分の思いだと考えている。それに対して、問題に成れば、私自身が詫びれば済む・・・しかし、自分以外の普通を言った方が楽だと言う考えも有る。誰々の指示で言っている。之で問題に成れば、当然、その誰々が詫びる形に成る。

大きく言えば、普通とは、この他人に問題時は押し付ける・・・成果は自分と言う考えの人に、多いように思う。

要は、一つの現象・物事に対して、どう捉えるかが、多々必要と言う事に成る。
全てが正しいと、一先ずは飲み込み、・・後で、ゆっくりと思案する事に成る。

例として、虫食いの野菜・・・奇麗ば野菜・・・両方等も、利点が有り・欠点が有ると言う事・・・・

虫食いの野菜は、考え様では、虫が美味しく食べたも考えられる。
虫も食わない、野菜だから奇麗と言う事にも成る。
農薬の使用度も有ると考えられる。

一つの物事で、直ぐに成否を判断しない・・・之が求められるし、若い時は、特に、知恵も経験値も低いので、必要に成る。

一極に向かう、価値観から出来る、普通や基準はからの成否の判断は、私は、信用しないようにしている。

マスコミ等々が、この手法を用いている。

庶民を誘導し、扇動し、一極方向に向ける・・・当然、マスコミも稼がなければ成らないし、その為には、力のある側への意向を進める事に成る。

私の住む場所の、足元が一番大事だし・・・その部分で、肌に感じる部分を、重視して物事を考える様にしている。

庶民以下の三流だから、大きな世界に広がり難い・・・先ずは足元・・・

間違っても自分の利を求めれば、当然、力が有る側の扇動に乗る方向に成る。それが、結果的に幸せと成れる人は、力が有った・運が良かったために成る。

力が無い立場は当然、その様な扇動に乗れば、ぼろ雑巾の様に扱われる事に成る。

分で、住む世界も変わるし、求める世界も変わるという事・・・

この部分まで、一極に向ける価値観が、浸透し続けている。


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