2017年8月3日木曜日

目的・・・趣旨・・

私は、世間でも変り者だし・・異端的と言われる・・・

趣味も同じだが・・・

この部分が私は、不思議に思う部分に成る・・・

何事も、各自で目的感も違う筈・・・・目的感が違えば趣旨も変わって来る・・・

今回、祭りも同じだが、祭りの準備をすればよいという目的感も有るし・・・その元々の祭りの意義等を求め探して、目的感を決める、之も有ると思う・・・・

結局、物事は後世に繋げる、部分も有るし・・・・繋げない部分も有る・・・之を吟味し、判断する、之が今居る人達の責任に成る。

行事等を、消化方で考えれば、キツイ・大変之だけで終わり、後世に繋がるとは私は考えていない。

行事等を、発展方で考えれば、問題も気付くし、後世に伝える部分とそうでない部分も見えて来る。

勿論、個人的な判断に成るので、この様な部分を多くの人で、議論する・・・之が将来に向けて発展する行動だと私は考えている・・・

しかし、自分の楽さだけを求める人は、何故か考えないし、行事を大変・キツイ、出来れば参加したくないこの様な価値観の人が、多ければ、民主主義・・結局、行事がなくなる方向に向う・・・

何事にも言える事に成る・・・・

一番大事な部分は、先ず、人が居る事・・・・次に、目的・・・趣旨に成って行く・・・・

今回も村祭り・・・漠然としている・・・見える部分より、歴史や目的が大事だし、それが現代に合わなければ、変化させられる部分は変化させる・・・之が、責任者やリーダーの責任に成る。

しかし、形・・・唯物部分に余りに趣旨が向かい過ぎると・・・何の為かが、曖昧に成ってくる。

目的が曖昧になれば、単純に楽しい之だけが残る・・・・楽しい立場は良いが、そうでない、運営等を行う立場は、その逆で楽しくないと成れば、誰も運営等を行おうとする人が居なくなり、結果、押し付け、責任感等々で・・・続ける方向に成る。

之は、有史以来、人の政等も同じで、歴史が証明している。

結局、確りした目的感を、持つ為に、学ぶ姿勢が大事だという事に成る。
之が無ければ、下働きは損、馬鹿がする事と、勝手に思う価値観に成って行く・・・

悩み・模索する・・之を損・不幸と考える方向になる。

楽に、汗も流さず、格好よく・・・之だけの世界なら・・・意味が無いし、逆にその様な事が出来る事は、キツク・汗を流す、泥だらけの人を輩出していることにも繋がる・・この人達を見せない方向の社会と言う事になる。

色んな目的感が、個性だし、価値観に成る・・・その為に議論・対話が必要に成る・・・
之が一極なら、押し付ける、成っているから成っていると言う方向に進む・・・対話が成り立たない世界に成る。

対話を楽しむ・・・その為には、同じ価値観の人と話しても面白くない・・・又、学ぶ事も出来ない・・・その為に、少なくとも、色んな年代の人と、話す事が求められている。

三流以下の私でも、出来るだけ、深く物事を、精査したいと考えている・・・優秀な人は、私以上に洞察力が有るので、心配するだけ損と思うが、何故か、不安が有る。






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