今日、五男を駅まで送迎・・・・その際、コンビの駐車場と堀との境の
ネットの柵に車が激突・・柵が有ったために、堀に落ちることは避けられたようだ・・・
この現場を見た、五男が、堀に落ちなくて良かったという、発言をした。
最近、物事を見て・・・どう捉え、判断し・・又、人様にどう表現するか???等々が、一極過ぎると私は感じている。
人様に伝え、相手で伝え方が変わると私は思っている。理由は何度も書くように差別主義者だからになる。
事故の危険性を強く教えたいと思えば、助かった事より、事故で人様に与えた迷惑、それによる、己への被害等々を、強く話す場合も相手で変わる。
昔からだが、息子達から、親父は~~~と言われる。理由は、一般的な見解と違うからとなる。
要は、その都度都度に、己に対しての勉強という捉え方を私はする。当然、相手にも教えなければと言う思いが有る。
その為に、相手には耳障りが悪いと思えることも、口から吐くことになる。
しかし、最近の人は、挨拶言葉・枕詞等々・・耳障りが良く、気にとめないで良いような綺麗で流れるような言葉・単語を好んで使う、トラブルを避けるためと思うが・・・相手の為という部分は減っている感じがする。
挨拶言葉、最近、良い天気が続きますね~~~と言う、問いに・・そうですね~~~で応える・・この流れ挨拶以外に、何の意味も無いと私は思っている。言葉を吐くなら、お互い勉強になるような事も大事だと思う。
今回の、件も、良かったという言葉で結んでいる。車が掘りに落ちなくて良かった・・・私はハ~~~となる。この様な回答をする人が増えている。
もし、第三者で世間を知らない子供等が聞いていたら・・・塀にぶつかったが結果、柵のお陰で、堀に天良か失いで済んだ、良い事と捉えたら、どうなるか???と私は思う。
要は、最終的にが大事で、それまでの因に関係することは、意味が無いという方向にも成る。
接触事故という因より、その結果、無傷か死亡したかで大きく違うと言うこと、しかし、因は、同じ接触だが・・・時と場合で、結果が違うこれが、世の中では普通に起きている・・・
軽く肩が触れた・・・しかし、その結果・・・対応が色々あると言うこと・・・
勿論、無事で良かったと普段言っているなら、問題にしないで、無に持って行く哲学と思うが・・現実には、少しの被害でも大袈裟に叫ぶ使い方を、この様なタイプをする可能性が有る。
己が因として起きた現象の結果に対しては、些細な事でに成る。
逆に結果として、痛みを感じたとなれば、因を作った立場に対して被害の代償を言うという人も出てくる。
人事だと、何も無くて良かったで済ませるが・・己の事に成ると、被害妄想が溢れ出すと言うことになる。
生命次元で言えば、一番不幸な生き方になる。唯物的には損しない・得する、儲けるように見えるが、心・命の世界では、一番、貪欲に飢え・欲という喉の渇きが永遠に続く、無間地獄の価値観となる。死の瞬間まで被害者意識で人を恨み妬み・・・苦しむ・・・感謝の念が一切無い・・不幸だと私は思う。
子供達に、不幸な生き方と、幸福な生き方・・・当然、捉え方になるし、唯物的か唯心的かでも大きく違う・・・最近の人は大学を出ていても、子唯心と言っても????状態・・・基本、唯物世界で生きているので、この部分だけしか無いと思っている人が多いことにも驚くし、学を求め、大学まで言ったと思うが、何為の学なのか???これも、我欲、肩書き・スペックのためだけの様に見える。
私は、最終学歴は、中学校レベル、勿論、中学校も真面に学んでいない。結果、小学校以下の知識しか持っていないと思っている。
しかし、それ以上の学校で学んでいるなら、何を学んだか???当然、何の為にもなるが・・己、人様・・等々有ると思う。
私の今までの経験や知恵では、己は無いと思っている、人様が創ってくれた存在が今の私・・・己が有ると勝手に錯覚しているだけで、己は社会や人様が創り上げた作品程度になる。
勿論、完成形で無い・・・・世間が私を作り続けていると思っている。出来るなら、最終的に世間様に有難うございましたと言える方向に創って頂きたい。
要は、社会が創った、作品・・・勿論、社会と言っても人になる。私を創った、接してくれた人達の思い等々が私を創り上げたと思っている。
間違っても己が勝手に育ち、仮に力が有ると成れば、己の力で力を得た等々と思うこと自体が、傲慢な鬼畜の命を持った生命体と言うことになる。
人々が創り上げた作品、人々の思いに応える・・当然と私は思っている。
この思いを、どう感じ取れるか???この部分が、先に書いた様に、耳障りの良い、綺麗で流れるような言葉、教育なら・・・本当の思いを伝えることが出来ない。
しかし、この流れから脱すれば、現代なら、異端児・変わり者、最終的にパワーハラ等々の加害者と成る。
結果、己の本意を伝えることが不可能に成っていく・・・その為に、受け側、作品側の能力が問われることにも成る。
仏法用語には機根が有るかのとなる。度量・器に成る。
この部分が減り、無くなれば、些細な事で、挫折することに成るし、当然、挫折した原因は????・・・他に責任を押しつける、要は被害者意識と言うことに成る。
簡単な事だが、叱咤をどう捉えるか????・・・感謝と捉えるか、パワーハラと捉えるか・・・色んな捉え方が有る。
一番徳なのは・・・当然、感謝と捉えることに成るが、一番儲けて得するのはとなれば、現代なら、パワーハラと捉えた方に成る。
要は、自分の都合で、捉え方が変わる・・・都合が、現代はお金に関する、唯物的、利が都合に成っている。
解りやすいに見えやすい、この見えることで判断する・・・本当にこの流れで良いのか???・・・・見えない部分に本来、現実・真実が有る。
この部分を見つめないと、不幸に向かう・・・
可哀想で、不幸な価値観が蔓延していく・・・仏法の世界だと末法と言う今を形で表していると思うが・・・何故、予言的に先人の釈尊が言ったいたことだが、何故、解消できないのか????
人とはどうしても、甘い水に心が引かれるのだと思う、凡夫と言うことだが現代、己は凡夫・下僕と思っている人は少ない・・・優秀で一流・神や仏に準じると思っている人が増えている。
当然、有限的な己が世界の中心だと思っているし、社会の作品が己とは思いもいない。結果、全てに感謝が無い。
い
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