人は、個性が有り、特徴が有り・・各々違う・・・しかし、この様な特質した部分を隠し一般に言われる普通を演じている。
以前、書いているが、現代の社会は、金太郎飴の集合体・・・しかし、切り方次第では、色々な個性が顔を出すと言う意味にも成る。
要は、普通と言う部分を表面に見せているだけと言う事・・・金太郎飴と違い、何処を切っても同じ顔では無いと言うのが、人間と言う事に成る。
要は、切り方、考え様を変えると、見方・観察の仕方では、内面が見えると言う事にも成る。
私は出来るだけ、装う事を避けようと思っているが、私も人間、装っていると言われれば否定できない。
仮に装いを全て無くせば、私は鬼畜の様相を見せることに成ると思っている。
若し、人様の施し等々に対して、感謝で無く・・・恨み・妬みを抱いてたら、当然、己の本性の鬼畜の命が増大し、隠しきれない状態に成ると思える。
その為に、私を金太郎飴と捉えれば・・・最後の最後に鬼畜の顔を出す、タイプと言う事にも成る。
勿論、私の場合、人は色々、仏が内在している人も居ると思うし、その様な人は、最後の最後に仏が顔を出すと言う事に成る。
私は、人の本性と言う部分に興味が有る。装っている部分は現代、簡単に手に入れる事が出来る。要は、時間軸さへ今と言う、瞬間だけなら、可能である。
しかし、本性の部分は、生きている間、内在し続ける・・・・ある人は、死んだ後も又、生まれ変わった後も続くと言われるが・・・・
この内在している部分をどう変化させるかが、生きている意味だとも考えている。
当然、鬼畜は鬼畜と私は思うが、鬼畜も色々有ると思うし・・・どの程度・レベルに到達できるかが、今世を生きる目的だと考えている。
動物としての厳然として命、宿命を持っている。又、人様のお陰で生かされていると言う畜の部分も有る。後は、鬼と言う、部分を如何変化できるかに成る。
畜として生かされている。これに感謝できれば、鬼の部分も抑えられると考えている。
出来なければ、鬼の振舞いが具現化される事に成る。
私は、この世に生まれてくるレベルで無いと思っていた時期が有る。
村八分・等々、何の為に生かされているのか???と疑問を持った事も有る。
要は、人で無い立場が、人として生まれた・・・之を、不幸と捉えるか????・・・幸福と捉えるかの違いにも成る。
最終的に、幸福と捉えられるように、物事を考え様と言う、方向に成った。
しかし、問題は、人の中で生きる・・結果、人の本質を見抜かないと、騙されたと言う思いが出て、鬼の命が顔を出す・・・この部分を無くす為にも、人の本質を見抜く模索の始まりに成る。
鬼のレベルが、何処まで、到達できるかは解らない・・・しかし、試す之も面白いと考えている。
宿命・運命と言う部分に、挑戦と言う事にも成る。
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